色あせぬ日台の絆。日本から渡った「台湾水道の父」の輝ける功績

 

そもそも北京の飲用水は、「山東水幇」といわれる水売りギルド組織によって支配されていました。近代的な水道建設工事は「山東水幇」の生存権を奪うこととなるため、しばしば山東人水売りギルドの組織的襲撃と破壊活動を受けました。

ことに、20世紀初頭の首都北京は、軍閥、諸勢力必争の地でした。政治的不安や変動があるたびに北京市民はたちまち一変して盗人となり、盗水の風潮が絶えませんでした。そのため、北京市街頭の水道の蛇口は、銃を構える軍隊か警備員によって守らなければならなかったのです。

このことからも、台湾の水道システムの確立は、台湾の法治社会の成熟を前提としたものでした。海上から緑に包まれた台湾を遠く眺めれば、たしかに「Illa Formosa」(美麗の島)と驚嘆させられますが、中原から見た台湾は、ただの「化外の地」「荒蕪の地」であり、実質的には「瘴癘の島」でした。

政治的、あるいは植民の歴史から見た台湾は、オランダ人統治者の漢人反乱に対する鎮圧、鄭成功の軍隊による原住民虐殺、清代の「三年一小反、五年一大乱」、あるいは「反日抗日運動」からみた台湾島民の犠牲者は、たいてい数百か数千人。島民の械闘や「蕃人」討伐の死傷者もせいぜいこのぐらいのものだったと思われます。中国軍による空前の台湾人大虐殺である「二・二八事件」(1947年)の犠牲者は3万人程度でした。

しかし「瘴癘」によって奪われた人命は、反乱や虐殺と比べて数十倍か数百倍はありました。仮にアヘンを吸飲して、一時的に瘴癘から身を守ることができても、根絶することはできません。

日清戦争に勝利し、台湾を領有することになった日本にとって、「瘴癘の島」台湾のインフラ整備において最も重要だったのは上下水道の整備でした。日本領台前の台湾では、人間と家畜が一緒に暮らしているような状態でした。首府の台北でさえ上下水道などなく、井戸も淡水河の水も不衛生きわまりない状態でした。少しでも清潔な井戸は富豪が独占してしまい、民衆は雨水か河川の水に頼るしかなかったのです。

街道にはゴミが堆積し汚水があふれていたため、いざ洪水や台風、豪雨などになると水が街道にあふれて汚水や汚物まで一緒に流れてきます。すると、当然ながら伝染病が蔓延するため、当時の平均寿命は30歳前後という若さでした。

この現状を打破するため、台湾総督府は豪族の水独占を禁止し、上下水道を分けて建設しました。そこで活躍するのがウィリアム・K・バルトンと浜野弥四郎です。

print
いま読まれてます

  • 色あせぬ日台の絆。日本から渡った「台湾水道の父」の輝ける功績
    この記事が気に入ったら
    いいね!しよう
    MAG2 NEWSの最新情報をお届け