色あせぬ日台の絆。日本から渡った「台湾水道の父」の輝ける功績

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以前掲載の「台湾で最も尊敬される日本人。命がけで東洋一のダムを作った男がいた」でもお伝えしたとおり、日本統治下の台湾でその発展のため尽力した日本人は、今も現地で語り継がれる存在となっています。今回のメルマガ『黄文雄の「日本人に教えたい本当の歴史、中国・韓国の真実」』で台湾出身の評論家・黄文雄さんが取り上げているのは、「台湾水道の父」と呼ばれる、東京帝大で教鞭を執っていた英国人とその日本人弟子のストーリー。黄さんは2人の輝かしい功績を詳しく紹介するとともに、戦前・戦中の歴史を肯定的に語ることがタブーとなっている日本の社会風潮を疑問視しています。

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※本記事は有料メルマガ『黄文雄の「日本人に教えたい本当の歴史、中国・韓国の真実」』2021年4月7日号の一部抜粋です。ご興味をお持ちの方はぜひこの機会に初月無料のお試し購読をどうぞ。

プロフィール:黄文雄こう・ぶんゆう
1938年、台湾生まれ。1964年来日。早稲田大学商学部卒業、明治大学大学院修士課程修了。『中国の没落』(台湾・前衛出版社)が大反響を呼び、評論家活動へ。著書に17万部のベストセラーとなった『日本人はなぜ中国人、韓国人とこれほどまで違うのか』(徳間書店)など多数。

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台湾水道の父 英国人技師の胸像復元 玄孫が三味線の音色で思いはせる

3月30日、台湾台北市の台北ウォーターパーク(自来水園区)で、日本統治時代、台湾の水道建設に尽力したウィリアム・K・バルトンの胸像再建の除幕式が行われました。式典にはバルトンの玄孫で日本育ちの三味線奏者ケヴィン・メッツ氏が、東京からリモートで参加し、三味線演奏を披露したそうです。

バルトンについての説明は後述しますが、台湾総督府の招聘によって台湾に渡り、教え子の日本人技師、浜野弥四郎とともに、水道の近代化を成し遂げた人物です。日本政府は1919年、バルトンの功績をたたえて台北水道水源地(現・自来水園区)に胸像を設置しましたが、第2次世界大戦中に行方不明になっていました。

ちなみにこの自来水園区は、日本統治時代の1908年に「観音山貯水池」が建設され、台北市約20万人市民への飲料水を供給していた場所であり、バルトンにゆかりがある地なのです。

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胸像の復元はNPO日本下水文化研究会創設者の稲場紀久雄・大阪経済大名誉教授や日本下水道協会、台北自来水事業処の協力で行われました。

台北市政府が主催した式典には、水道専門家の李鴻源氏や日本の対台湾窓口機関、日本台湾交流協会の泉裕泰台北事務所代表(大使に相当)や英国在台弁事処のジョン・デニス代表らが出席。東京からは台北駐日経済文化代表処の謝長廷代表、東京都水道局の代表者などもリモートで参加したそうです。

ここで、台湾の水道史について、拙著『台湾は日本人がつくった』から引用しながらご説明しましょう。

日本統治以前の台湾は、「瘴癘(しょうれい)の島」と言われるほど風土病が蔓延していましたが、その原因のひとつが水問題でした。

清国の台湾領有当時、台湾海防同知・孫元衡はかつて「瘴気水山歌」をつくり、台湾の山水には瘴気が満ちあふれていると語っていました。1714年、康熙帝はヤソ会の伝教師マラ(Josde Malla 漢名・馮秉正)ら3人を台湾に派遣し、地図製作の測量を行いましたが、彼らが連れてきた屈強なボディガードは、台湾の水が「毒水」であることを信じようとせず、強壮な体力を過信し、地図測量中に沸騰させた飲用水が台南から現地へと届けられていたというのに、わざと泉水を飲用したために5日間で死亡してしまいました。

19世紀までの台湾は、「人至れば即病、病になれば即死」「十去、六死、三留、一回頭」(10人行っても6人が死に、3人が留まり、1人が戻る)という諺が残っているように、渡来人が住めない非常に厳しい環境でした。たとえば、中国大陸東南沿岸の住民が台湾に移住したのは、ほとんどがオランダ領有時代(1624~1661年)からですが、彼らが台湾へ渡ったあとの悲惨な状況は、次に挙げる「渡台悲歌」からも窺うことができます。

勧君切莫過台湾(君、台湾へ行くのはやめてくれないか)
台湾恰似鬼門関(台湾はまるで鬼門のようなところだ)
千個人去無人転(千人行っても帰ってくる人はいない)
知生知死都是難(彼らは今なお生きているのかどうかさえも分からない)
就是窖場也敢去(それが墓場だと知っていても敢えて行くのか)
台湾所在滅人山(台湾はまさしく人を滅ぼす山だ)

このような水事情のなか、台湾人にとっての生活史・生存史の最大の課題は、いかにして水の問題を処理して水資源を利用し、さらに水体系の循環を理解するかということでした。台湾史を知るには絶対に欠かせない視点のひとつでもあります。まさに台湾の近代化は、その「毒水」──水土問題の処理と「水循環」の利用から始まっていました。日本の領台当初も台湾の生活環境は相変わらずで、極端に悪劣にして不衛生でした。首府の台北を例にしても、上下水道はまったくありませんでした。

井出季和太の『南進台湾史攷』には、当時の台湾についてこう書き記されています。

台北市街の如きは、家屋の周囲又は庭内には不潔な汚水が流出し、または各処に潴留した沼があり、或いは人民犬豚と雑居し、或いは往々共同便所の設備あれど、至る所に糞便を排散し、独り市中に日本人の鑿井に係わると云う噴水には、鉄管を以て飲用水を供するも、その桶器は極めて不潔で……。

当時の台南についても、

又台南府に在っても雑多の廃棄物は勿論、糞尿は各所に排散、堆積し、街の両側に在る排水溝は汚水を渋滞し、其の派生する悪臭と相和し、鼻を衝き城外より頓にわかに城内に至るときに臭管刺激され、殆ど嘔心を催す。

と記しています。これが、当時の台湾二大都市の衛生状況でした。

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