失業中に結婚し居候も。作曲家・小林亜星さんの破天荒な半生と父母への思い

 

僕は勉強してなんとか医学部に入ったんだ。あの時はオフクロも赤飯たいて、両親は僕の医学部入学を喜んでいたけど。大学に入った途端に、またバンドをやりだしたから。毎晩のように進駐軍のキャンプに行って演奏して。大卒の初任給が1万円ぐらいだった当時、一晩でギャラが2千円ぐらいになったね。

そんなことばかりやっているから、医学部の勉強はおろそかになって3年になる時、──こりゃ医学部の勉強にはついていかれん。そう実感した僕は経済学部に転部して。親がそれを知ったのは卒業が迫った僕が大学4年の時だった。せっかく入った医学部を勝手に止めてしまった──、それがわかった時は、親父もオフクロもガーンときたようだ。声も小さくなって落胆した様子がありありで、ショックで立ち直れなくなりそうだった。あれは気の毒だった。親不孝をしたなと。

でもね、親父の怒り方はわりといいセンいっていたね。「勉強する気がない、医者になる気がないおまえが医学部に入って、そのおかげで、本当に医者になりたかった人が入れなかった、それはよくない」なるほどなと思って、ちょっと反省したことを覚えている。

僕の作曲が表彰されても、両親はインチキと思っていた!

卒業してとりあえず就職したけど、大学時代はバンドで稼いでいたから、遊び癖がついているわけで。学生時代から銀座で飲むことを覚えちゃったから。給料をもらっても、2日ぐらいでパーと遣っちゃう。あとは昼メシなんか1個5円のコロッケをかじってさ。もう、これじゃサラリーマンは無理だと、2年ほどで会社も辞めちゃって。

「あんた、どうするの!」とかなんとか、それまでさんざん僕に意見していたオフクロは、もう完全にサジを投げていたんでしょう。失業すると、ガラの悪い飲み屋の借金取りが何人も家を訪ねてくるようになって。しょうがない。飲み屋の借金のほうも親が何とかしてくれて…。

おまけに失業中の24歳の時、前のカミさんを家に連れてきて、「一緒になりたい」と。「職もないのにどうするんだ!」両親には反対されたけどね。放っても置けないと思ったのか、親父が日黒雅叙園で結婚式を挙げる費用を出してくれて。新婚旅行は熱川にいったのかな。その費用も全部、両親持ちだった。こう思い出すと相当世話になっているだよね……。

結婚しても夫婦で実家に居候して、親父オフクロに食わしてもらっていたんだから、「もう亜星、家を出て行ってくれ」オフクロがそう言うのも当然だった。それから夫婦で安アパートを借りて、僕は作曲家を目ざすわけなんだけど。作曲でもやるか、これしかない。“デモシカ”作曲家だったんだ。

1976年「北の宿から」で日本レコード大賞をもらっても、親はインチキな息子が詐欺師みたいなことをやってるという目で、見ていたんじゃないか。40歳近くなって、子供も2人いてある日、それまで稼いだものを全部、前のカミさんに渡して、パンツ一丁で今のカミさんと一緒になって。だから晩年までずっと、僕は親には心配をかけた。

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