京都先斗町に招待、芸妓さんの笛や太鼓に両親は震えちゃって
お父さん、お母さん、親不孝ばかりして申し訳ない……。こう見えても、そんな気持ちはいつも心の片隅に抱いていたんだ。まだ二人が元気な頃、京都の先斗町の料理旅館に、親父とオフクロを招待したことがある。食事の時、芸妓さんが笛や鼓を披露したら、二人ともマジメ人だから芸妓さんの前で震えちゃってさ。それでも、すごく喜んでくれた。あの亜星が……。そんな思いが込み上げてきたのだろう。オフクロは涙を流して、僕も思わず泣いちゃったんだけど。
親父が亡くなる年の正月、一緒に酒を飲んだ時のことだ。「いや、亜星、お母さんにはオレも苦労したんだ」親父はそうポツリと吐露していた。お父さん、お父さんは心の底で僕を羨しがっていたんじゃないか。若い頃に抱いていた劇作家への夢は早々に諦め、僕のように好き勝手なことをするでもなく、一人の生活者として家庭人としての生き方を貫いたわけで。お父さんも自分でやりたかったことを、とことんやっていたら……。
僕は親父に謝らなくちゃいけないことがある。親父の容体が急変し、救急車で病院に運ばれた時のことだ。「俺の靴はどこにあるんだ?」と、病室で僕に訊いたよね。救急車で運ばれたんだから、「靴は持ってこなかったよ」そう答えると、親父は、「そうか、俺はここから出られないということか……」そう寂しそうにつぶやいていた。そして実際、その通りになってしまった。
親父が亡くなってからも、僕は靴のことが胸につかえていた。人の心に届くメロディを提供する、そんな仕事に携わっているのに、最期まで親父に希望を与える気配りができなかったのか。お父さん、申し訳なかったね。
オフクロは90歳になった今でも、「ソ連がなくなったのは、あれは間違った共産主義で、本当の共産主義はああじゃない!」そんなことを言い張っている。若い頃の理想をあの年まで突っ張ってきたんだから、率直な感想を言わせてもらえば、“参ったね,えらいよ”という感じだ。いつまでも長生きして下さいよ、お母さん。
前妻との間の二人の息子は僕を見ていて、“あんな親父じゃしようがないよ”という思いがあるでしょう。息子は二人ともマジメな男だ。特に長男なんか、僕を反面教師として育ったせいか、クリスチャンだから。今、女子高の先生だからね。
うちは隔世遺伝の家系かもしれない。じいさんが遊び人で、親父たちがマジメ、僕がこうで。だから僕の孫は、また遊び人が出るんじゃないかと、楽しみにしているんだ。(ビッグコミックオリジナル1995年11月20号掲載)
小林 亜星(1932年8月11日~ 2021年5月30日)作曲家だが、作詞家、俳優、タレント、数多く手がけたCMソングの中では歌手もこなした、マルチタレントである。CM曲や歌謡曲、アニメソング、テレビ番組のテーマ曲など、生涯に残したのは6000曲以上。1976年「北の宿から」で日本レコード大賞を受賞。戦後の稀有な才能の持ち主と表されることもある。東京都渋谷区出身、祖父は医師、父は役人、母は劇団員。戦争のため長野県小諸市に疎開。 旧制慶應義塾普通部から慶應義塾高等学校を経て、母の勧めで慶應義塾大学医学部に入学したが、音楽サークルでの活動に熱中、経済学部に転部して卒業。大手製紙会社に入社、数カ月で退社し、大学の先輩の作曲家・服部正に師事。当時は痩せていたという。出世作のレナウンのコマーシャルソング「ワンサカ娘」(歌:弘田三枝子)。これ以後、CMソングを中心とした作曲活動を展開。『日生のおばちゃん』『この木なんの木』など、多くの日本人の耳になじんでいるCMソング多数作曲。向田邦子の代表作テレビドラマ『寺内貫太郎一家』で俳優デビュー。ちゃぶ台をひっくりかえす頑固親父の「寺内貫太郎」役が大ウケ。日本音楽著作権協会の一部理事の公金不正流用事件を機に、有志会員が小林亜星、永六輔、野坂昭如を中心に結束。J-scat(日本作詞作曲家協会)を組織。服部克久作曲の「記念樹」が小林の作曲した「どこまでも行こう」の盗用だとして小林が訴えて司法では小林の主張が認められた。2009年5月には懇意のヴァイオリニスト、天満敦子とのコラボレーションを集大成したアルバム『ロマンティックをもう一度』が発売された。2015年、第57回日本レコード大賞・功労賞を受賞。2021年5月30日早朝、自宅で倒れていたところを発見され東京都内の病院へ緊急搬送されたが、心不全のため同日死去。88歳没。
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