【お手本】
それでは、「一芸」に秀でてさえいれば、人々はその人物にカリスマ性を感じるのか、といえば、そうはいきません。もうひとつ、大切なことがあるのです。それは、その人に「お手本(model)」としての魅力があるかどうかです。簡単に言えば、大衆がその人を見て「自分もあの人のようになりたい」と感じるキャラクターであることが必要なのです。このように、人々が「真似(まね)」をしたくなる対象を「モデル(お手本)」と言います。
お手本になる人は、人々が求める何らかの「価値」を体現しています。外見が魅力的というのも価値です。豊かで経済力があるというのも価値です。何らかの信念や信仰を誠実に追及しているというのも価値です。生活を一新するような発明をしたり、芸術作品で人を感動させるのも価値です。スポーツが得意なのも、多くの人に人気があるのも価値です。愛情に溢れていて優しいというのも価値です。人間が求めて止まない、大切なこと、それが「価値」です。
いくら一芸に秀でていて、目端(めはし)が利き、お金を稼ぐのが上手いとしても、そのやり方に社会性が欠けていて、真面目に働く人たちを平気で犠牲にするようなら、多くの大衆は彼のようになりたいとは望まないでしょう。むしろ大衆は、そういう人物を拝金主義の悪役として憎悪の対象に選びます。
ただ、これは、あくまでも大衆の心が「健康」である場合の話です。なぜなら、「カリスマ」を大衆心理の側から見れば、それは大衆の潜在意識に共有されている「夢」や「憧れ」「希望」などの「投影(projection)」されたものでもあるからです。大衆の心が病んで傷ついた時、夢や憧れや希望は、いつの間にか「ルサンチマン(恨み)」や「呪い」「攻撃性」へと姿を変えます。
アドルフ・ヒトラーも毛沢東もウサマ・ビンラディンも、いずれの「指導者」も確かに優れたカリスマ性を備えていました。しかし、その後の歴史で、彼らが大衆にもたらした「悲劇」を忘れることはできません。そして、彼らが引き起こした災厄は、それぞれの時代に彼らを英雄に祭り上げた大衆自身が、無意識の裡(うち)にカリスマ的指導者の中に求めていた「悪魔的な何か」がもたらした必然の結末ではないでしょうか。ある意味、狂信的な独裁者を生み出すのはこれを支える大衆なのです。
現代の世界が本当に必要としているのは、力強いカリスマ性を持つ権威的な指導者よりも、優しい「癒し手(healer)」の方なのかもしれません。もっとも、狡猾な悪魔は、しばしば美しい「癒しの天使」を演じて人々を裏切るのですが…。
image by: Shutterstock.com