まず、正しいことは絶対に正しいという認識の誤りが不幸を生む。すべての正しさとはあくまで自分の思い込み(信念)に過ぎないということ。これを教える。
これも何度も書いているが、正しさとはその場、その状況において180度変化する。
玄関で靴を脱ぐというのは、あくまでも日本における正しさである。服装や言葉遣いはTPOで正しさが全く変わる。
例えば「給食は残さず全部食べるべき」なども学校神話として語り継がれてきた正義の一つである。戦後間もない頃には、そもそもこの議論さえない(食糧自体に困窮しているので残さない)。状況にもよるが、飽食の上、宗教含め多様な子どもが在籍する今の時代には、まずそぐわない正義である。
宗教が違えば、当然正しさは変わる。宗教戦争に終わりがないのは、正しさと平和の認識の違いからである。正義のヒーローは、やっつけられる「悪の組織」の側の家族からすれば、確実に悪である。
次に、それを直接裁いたり罰したりしてはいけないということ。ここも教える。(いわゆる私刑、リンチであるが、言葉としては教えない)。
社会で言うと、スピード違反や路上駐車違反を罰することができるのは、警察だけの権限である。一般人には、それを捕まえてどうこうはできない。せいぜい、それで直接困らされている住人が助けを求めて警察に通報するところまでである。
基本的に、ルール違反はルールを定めた立場の人間に権限があり、対処する義務がある。道路交通法であれば警察に権限があるし、学校のルールであれば、教師である(逆に言えば、子どもたちが自治的に決めたルールなのであれば、そこに教師が直接対処するのは誤りである)。
だから、ルール違反だと思う人を見つけても、それをみんなに知らせたりやっつけたりしてはいけない。まして、正しいからと私的に裁いて罰することは、それ自体が違法行為である。