父が原因。あの松方弘樹がオレンジジュースに手を出せなかったウラ事情

 

あの時の親父は、早く逝きたかったんだろうと思う。

ある時、人と会う用事があって京都の街中のホテルを訪ねると、ボーイさんに親父が来ていることを教えられた。

これは女と一緒だな、ピンときた僕は親父の部屋に電話を入れた。

「もしもし」「あ、おう、浩樹か」「何してるんですか?」「いや、ちょっとな……」「今そっちにちょっと行くわ」「いや、こ、来んでいい」

僕に対して、親父があんなにあわてた姿を見るのは、後にも先にもあれ一回きりだった。「女と一緒なんでしょう」畳み掛けるようにそういうと、「お、おい、八重子にはいうなよ」と。

親父がオフクロの名前を出したのは、意外だった。散々放蕩してきた親父だ。なのに今更…、あわてると人間は本性が出るものらしい。心の底で親父はオフクロが怖かったのか、頭が上がらなかったのか。

振り返ると、親父の周りにあれだけスタッフが集まったのも、オフクロの力があったからだ。現場への差し入れからスタッフの冠婚葬祭の付け届けとか、全てオフクロが気配りをしていた。家にみんなが集まり麻雀をやると、灰皿を替え夜食を作り、オフクロは一睡もせずに接待をしていた。

近衛十四郎があれだけ世間に知られ羽ばたけたのも、オフクロ、水川八重子がいたからだった。

そのオフクロが亡くなったのは、僕が30歳そこそこの時だった。まだ60代前半だった親父は、オフクロがいなくなると、あっという間にムチャクチャに老け込み、足腰すら満足に立たなくなってしまった。

絆の強い夫婦だったんだろう。

「オフクロがいなくなって、親父しかいないんだからさ、長生きしてくれなきゃ。医者のいうことを聞いて、酒はそんなに飲むな、肉は食べるなよ」

僕も親父にいろいろと意見をした。けど僕がいなくなるとお客さんを家に呼んで、焼肉屋から肉を持ってこさせて、宴会をはじめちゃって。

親父、近衛十四郎、親父はさ、多分、早く逝きたかったんじゃないか。

親父が死んだのは、オフクロが亡くなって10か月後のことだった。

オフクロと親父を相次いで亡くしたあの時期は、僕も一回目の離婚問題でもめている大変な時期だったが。親父に教えてもらったことは、言葉ではない。周りの人間を顧みず男尊女卑でワンマンで、親父は文字通り僕にとって反面教師だ。僕はとにかく近衛十四郎さんみたいな生き方はしたくないし、今もその気持ちに変わりはない。

ところが、弟が僕にヘンなことを言う。弟は僕にこう言うんだ。

「兄貴の生き様は、本当に親父そっくりだ」

(ビッグコミックオリジナル2004年9月20日号掲載)

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image by: kuremo / Shutterstock.com

根岸康雄 この著者の記事一覧

横浜市生まれ、人物専門のライターとして、これまで4000人以上の人物をインタビューし記事を執筆。芸能、スポーツ、政治家、文化人、市井の人ジャンルを問わない。これまでの主な著書は「子から親への手紙」「日本工場力」「万国家計簿博覧会」「ザ・にっぽん人」「生存者」「頭を下げかった男たち」「死ぬ準備」「おとむらい」「子から親への手紙」などがある。

 

このシリーズは約250名の有名人を網羅しています。既に亡くなられた方も多数おります。取材対象の方が語る自分の親のことはご本人のお人柄はもちろん、古き良き、そして忘れ去られつつある日本人の親子の関係を余すところなく語っています。

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