父が原因。あの松方弘樹がオレンジジュースに手を出せなかったウラ事情

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ある世代には銀幕の大スタートして、またある世代には笑い上戸のバラエティ番組出演者として知られる松方弘樹氏。2017年に惜しまれつつ世を去った松方さんは、時代劇の人気俳優と元女優を父母に持つ芸能一家の長男として育ったサラブレッドでしたが、父親に対しては複雑な思いを抱いていたようです。今回のメルマガ『秘蔵! 昭和のスター・有名人が語る「私からお父さんお母さんへの手紙」』ではライターの根岸康雄さんが、松方さんが生前語った放蕩三昧の父、そしてそんな夫を支えた母とのエピソードを紹介しています。

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松方弘樹「夫婦はわからない。オフクロに鼻で笑われたあの時、放蕩した親父がオフクロを亡くし早く逝きたかった心情」

松方弘樹といえば『仁義なき戦い』シリーズである。映画が公開されたのは私が高校生の時で、強烈なインパクトがあった。「のう、メシ食いに行かんかのう」とか何とか、仲間がみんな広島の呉弁になっていた。「神輿が勝手に歩けるゆうなら歩いてみいや」とか、「ささらもさらにしちゃれ(滅茶苦茶にしろ)」とか何とか。松方弘樹演じるヤクザのセリフを飲み屋で真似ると、今も同世代の親父の一部には大ウケである。憧れの銀幕スターだった。父親の近衛十四郎主演のテレビドラマ、『素浪人 月影兵庫』も小学校の頃に観ていた。クモが大嫌いでオカラが大好物、そんな月影兵庫は近衛十四郎の当たり役だった。(根岸康雄)

あーすごい人が俺の親父なんだ…と、…思った記憶が…

東京の赤羽の家に、親父が戦争から復員してきたのは、昭和21年。僕が4歳の頃だった。

当時の親父は30代の前半で、そりゃもう元気で。親父に遊んでもらった思い出といえば、戦時中防空壕があった家の前の小山に、ダーッと駆け上がった親父がてっぺんで腕を組み、「浩樹、ここまで上がって来い!」と。4、5歳の子供にとって30mほどの小山は、ものすごく高く感じるわけで。雑草をつかみ、四つんばいになって登りながら、

あー、すごい人が俺の親 父なんだ……

子供ながらにそう思った記憶が残っている。

新潟の長岡出身の親父は、9歳で芸能の世界に飛び込み、若い頃はマイナーな映画会社を渡り歩き、近衛十四郎一座という大衆演劇の座長として、全国を回る興行もやっていた。

オフクロは水川八重子という芸名の映画スターだった。親父と一緒になって女優はやめたが、戦時中、親父が召集されていた時は、オフクロが一座を継ぎ地方を回っていた。

復員した直後は戦後の混乱期で芸能界の仕事はなく、川口のオートレースに通っていた時でも、親父は家長として君臨していた。戦前の日本の多くの家がそうであったように、我が家も親父が絶対的な存在だった。食事のときは親父が箸をつけるまで、家族は食べ物に手をつけられなかったし、オフクロが親父に面と向かって口答えをした姿は、見たことがない。

昔は大方の親父が怖かったが、うちの親父も怖かった。僕にとって何が苦痛かといって、親父との夕飯の時で。酒を飲む親父だったから、晩酌がはじまると、食事の時間が長い。当時は仕事がなくて暇だったこともあって、食事に4時間も5時間もかかる。その間、僕は横に座って親父の相手をしなければならなかった。

あまり酒癖のいい親父ではなかった。酔っ払って親父がしゃべることといえば、戦地で痔でもないのに痔だといって尻を切り、前線行きを免れたとか、いつも同じ話で。

「歌を歌え!」と親父にいわれ、食卓の上に立って、ディック・ミネや岡晴夫の歌を唄ったこともよくあった。

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