父が原因。あの松方弘樹がオレンジジュースに手を出せなかったウラ事情

 

オレンジジュースは積極的に手が出ない

やがて映画の仕事が増えた親父は、単身赴任のようにほとんど京都の撮影所にいるようになった。京都に引っ越したのは僕が中学2年の時だった。京都に移って親父と一緒に生活をするものと僕は思っていたが、家では親父の顔をほとんど見なかった。

「お父ちゃん、もう出かけたよ」「お父ちゃん、まだ寝ているわよ」

オフクロは僕にそういっていたが、酒もタバコの匂いもしない。親父が帰っていないことは、子供の僕にも分かっていた。

家に帰らない親父にオフクロは一人、枕を濡らしていたこともあったに違いない。だが父方の祖母も同居していたし、オフクロとしては体裁もあったのだろう。それでも1、2か月にいっぺんぐらいだったか、「ちょっと迎えにいってきて」とオフクロに頼まれ、呼んでもらったハイヤーに乗って、僕は上七軒のお茶屋まで、親父を迎えにいったこともあった。

ソフトドリンクなんてあまりない時代、お茶屋のきれいなお姉さんが出してくれたのがバヤリースオレンジで。親父も用件が分かっているから。

「また来る」とかお茶屋の女将に声をかけて、僕と一緒に家に帰ってくる。当然、親父の機嫌は悪い。家に戻って晩酌がはじまると、僕はまた親父の横に延々と座らされて。親父の相手をさせられた。

僕は頑固なところがある。未だに接待以外にお茶屋は使わない。嫌いなわけじゃないが、オレンジジュースには積極的に手が出ない。

小さい頃から親父の前で歌わされていたせいなのか、歌が得意で先生について歌の勉強をしていた僕は、歌手になるつもりでいた。ところが高校2年のある日、親父に当時の東映の社長を紹介され、役者になることを勧められた。

「役者をやれば感情の表現が豊かになる。一本くらい映画をやった方がいいんじゃないか」

親父にはそういわれたが、僕に役者の体験させたかったのは、むしろオフクロの方だったに違いない。オフクロが親父に勧めたのではないか。

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