「西洋」とはどこのことなのか?
ハンチントンは、「西洋的な諸観念」を他に押し付けようとすることが間違いだと認めたが、翻って「西洋」とはどこのことなのか。
デヴィッド・グレーバーは『民主主義の非西洋起源について』(以文社、20年刊)で、ハンチントンの『文明の衝突』の議論が並外れて粗雑であると批判しつつ、中でも問題なのは、「西洋」として言及することができるような何らかの実体が存在するという発想そのもの――古代ギリシャに起源を持つ学問的伝統が今日の西ヨーロッパと北アメリカの住民の文化として引き継がれているというフィクションが自明のことであるかのように前提されていることだと指摘する。
西洋とは西欧と北米のことで、その文明がとりわけ優れていることの裏打ちは、それがギリシャの文学的・哲学的な伝統の正統な継承者であることに求められていて、それを西洋人はもちろん、東洋人をはじめ未開人扱いされている人々も何とはなしに信じてしまっているのがおかしいというわけである。このフィクション性は、「西洋的な諸観念」の1つである「民主主義」においてとりわけ顕著で、これは後述する。
ちょっと横道にずれるが、このことはまた、安倍・菅両政権の「価値観外交」の欺瞞性にも繋がる。安倍晋三前首相、麻生太郎副首相、管義偉現首相は口を揃えて「価値観を同じくする国々と協力して(中国包囲網を形成する)」と呪文のように唱えてきたけれども、この価値観の中身については、まるで自明のことであるかのように扱い、彼らの口から詳しく説明したことは一度もない。が、外務省はHPで価値観外交を「普遍的価値(自由、民主主義、基本的人権、法の支配、市場経済)に基づく外交」と定義している。
自由、民主主義、基本的人権、法の支配、市場経済の各項目は、上述のハンチントンの列挙とほぼ重なっている。しかし、ハンチントンはそれらが日本を含む非キリスト教の未開世界には通じないものだと匂わせているというのに、外務省はそれらが「普遍的価値」だと断言する。ということはつまり「西洋崇拝」「米国信奉」、その裏返しの「東洋侮蔑」「中国嫌悪」ということの表明なのだろう。
「欧米化=近代化」なのか?
宇野重規も『民主主義とは何か』(講談社現代新書、20年刊)でグレーバーと似たような問題意識を述べている。
▼かつて世界の国々は、早い遅いという違いはあれ、いつかは民主化するという「常識」があった。独裁的な国家においても、経済の発展のためには所有権の法的保護や公正な裁判制度の導入が不可欠である。経済が成長すればやがて中間層が育ち、さらなる自由化と民主化を要求するだろう。結果として、開発独裁国もいずれは民主化していくのであり、市場経済と自由民主主義体制とが手に手を取り合って発展していくと考えられたのである。
▼ところが、このような考え方は現在、大きく揺さぶられている。経済成長にとって、自由民主主義は本当に不可欠なのか、むしろ独裁体制の方が望ましいのではないか。民主主義にとっては経済成長が必要であるとしても、その逆は必ずしも当てはまらないのかもしれない。このような考え方が力をもつにつれ、経済成長と民主主義、あるいは市場経済と民主主義の関係が問い直されるようになったのである。
▼さらに大きく捉えれば、このような事態は「欧米的価値観の問い直し」にもつながる可能性がある。これまでは近代化とはすなわち欧米化であり、欧米的な民主主義の導入は世界のすべての国々の「普遍的」な目標であり、ゴールだった。しかしながら、中国やインドなどのアジア諸国が飛躍的な経済成長を遂げ、経済的にも世界を主導する立場になった今日、欧米中心の世界観は急速に過去のものとなっている。
▼そうだとすれば、「欧米的な自由民主主義が絶対ではない」という考え方が出てきても、不思議はないだろう。民主主義は本当に人類の共通の未来なのか、あらためて疑問視されているのが現在という時代なのである。
つまり安倍も麻生も菅も外務省も、時代遅れなのである。