安倍・菅・麻生に外務省の時代遅れ。「欧米化=近代化」という価値観の崩壊

 

民主主義の発祥地はアテネなのか?

前出のグレーバーによると、18世紀後半の米国やフランスでは、アテネ式の直接民主主義は理想でも何でもなく、むしろ衆愚の見本として蔑みの対象でしかなかった。米独立宣言や仏人権宣言の起草者たちが奉じていたのはローマ式の共和主義であり、その中身は君主制・貴族制・民主制3者の均衡を重視したいわゆる「混合体制」とそのための代議制民主主義であった。ところが19世紀になると、米国では選挙権が拡大され、政治家たちが小農民や都市労働者の票を集めなければなってきたため、一部で民主主義という言葉が肯定的な意味で用いられるようになった。またフランスでは、1830年代に社会主義者たちが人民の票を得るための標語に「民主主義」を使い、その流れの中で、アテネは暴力的な群集心理の悪夢の象徴から、民衆の政治参加という高貴な理想の先駆的体現者へと、180度ひっくり返った歴史評価がなされるようになった。そうすると、従来は対抗概念だった直接民主政と代議共和政とが混同され、「共和制」「共和国」の意味を表すのに「民主主義」の語が使われるという混濁まで起きてきた。

従って、今日の米国人が全世界に普及すべきモデルとして自慢げに語る「米国式民主主義」の実体はローマ式の共和主義であり、つまりは普通選挙を通じての代議制の国家運営方式のことであって、別に全世界が見習わなければならないような筋のものではありえない。なのに、アフガニスタンとイラクの国体を軍事力によって破壊してそれを押し付けようとしたところに大失敗の根本原因がある。

アフガンに民主主義はなかったのか?

アフガニスタンはタリバンという前近代的なイスラム原理主義集団によって支配され、そこがウサマ・ビンラーディン率いるアル・カイーダが身を隠す温床となってきたのだから、それらを一掃して米国式民主主義を教えてやらなければならないと、ブッシュ子は考えたのだろう。その時に彼は、ビンラーディンは実は1980年代を通じてブッシュ父の協力者であり、アル・カイーダとは父が資金を提供して創立した反ソ・ゲリラ戦士育成のための学校だったということを知っていたのだろうか。たぶん知らなかったか、知っていてもそのことの意味をよく理解していなかったのだと私は思う。

それ以上にブッシュ子が全く理解できなかったのは、この国はこの国なりの、数千年も続いてきた別種の民主主義の伝統があり、それを無視してはこの国を動かし社会を落ち着かせることなど到底できないのだという(西洋には非常識かもしれないがアジアやユーラシアにとっての)「常識」だったろう。

この国を成り立たせている基本は、部族とその地域ごとに分かれた村を部族長とそれを囲む長老たちのジルガ(評議会)が取り仕切って物事を決めていく(西洋から見れば封建的な)「部族社会」であり、その部族はまた武装集団(といっても常任の軍人ではなく普段は農民として暮らす者がいざとなれば武器を取る、日本の地侍や屯田兵のようなもの)の組織単位でもある。だから、米国が攻め込むと意外にあっさりとタリバン政権は崩壊したが、それはどこか遠くに逃げたのではなく、この国の伝統的な部族社会の軟構造に、水がスポンジに吸われるように、身を隠したのであって、だから米軍がいなくなった途端に一夜にして地面から湧き出すように現れて首都を奪還できたのである。

部族単位の半牧畜半農耕的な生活を維持していく上で、重要なのは部族の意思決定であり、またテーマが広域に及ぶ場合には他の部族との協議が必要になるけれども、国という広がりの中での意思決定というのはほとんど意味がないというか、人々にとって縁遠いものだった。

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