私が踊れなくなったとしたら、その辛さは……
でもね、こうして振り返ると、そんなパパがいたことが逆にバネになり、私は強くなれた気がしています。
家族を支えていく、そのことは私にとって決して重荷ではなかった。長女の私がママの助けにならなければ、私が頑張らなければいけないんだと。
舞台やテレビで踊ったり歌ったりしていると、何もかも忘れて夢中になれました。小学校の時の文集に歌ったり踊ったりして、人が楽しんでくれることをやりたい、と私は書いています。
そんな子供のころの夢を大人になっても、ずっと続けてこれたのは思い起こしてみると、私が置かれたあの環境があったからでした。
「お姉ちゃん、ありがとうね」
それはパパが急死した当日、
「仕事に行ってきます」
そう声をかけた時、パパが私に言った最後の言葉でした。
私の腕の凍傷の跡はようやく消えましたが、それはパパの亡骸をずっと抱きしめていて、ドライアイスがあることに気づかず、傷つけたものでした。
なぜパパがお酒に溺れてしまったのか。
子供の時からトランペットを吹くことしか知らない父でした。パパがトランペットを吹けなくなった歳を過ぎてみて、私はしみじみ思ったことがあります。もし、私が事故か病気で足が不自由になり、舞台の上で踊れなくなったとしたら、その辛さは……。
パパ、そうなったら私だって……。
パパの苦しみや悲しみを私がもっと聞いてあげて、もっと分かってあげられたら、パパだって違う生き方ができたのかもしれない。
「ダンスを踊りたい」
パパが亡くなって、ママは再び踊りをはじめました。家でお酒を飲んで、ちょっと寂しくなった時、私はママが大好きなルンバの曲をかけます。踊っている時のママはいい顔をしている。
ママは舞台で踊っている私の姿を見ることが、何よりも好きです。
私はリーゼントで背広を着て、トランペットを吹いているパパの写真を、肌身離さず持っていています。
「パパ守ってね」
舞台に立つ前、私は写真のパパにそう話しかけます。
そしてステージで踊っている時、私は感じます。パパとママと私と、3人で一つダンスを演じているんだなと。
(ビッグコミックオリジナル2004年3月5日号掲載)
昭和のスター、有名文化人たちが自分の親について語った貴重なエピソードが満載のメルマガ詳細はコチラ
image by: Shutterstock.com