昭和の「視聴率100%男」欽ちゃんこと萩本欽一の不思議な“家族関係”

 

未だにアルバイト代はオフクロが貯金してくれていると

親父の会社が倒産したのは昭和20年代前半、僕が小学3年生の時で、僕ら家族は浦和の洋館から、親父の会社の事務所を兼ねて、東京の下谷の二軒長屋のような家に引っ越した。お手伝いさんもいなくなり、そこからが貧乏のはじまりだった。

新しもの好きの親父は「最新式だ、これは売れるぞ」とか、当時、ポケットカメラを作って失敗したりしていたけど。その後も親父のカメラ関係の新しい仕事は、失敗続きだったんでしょう。借金がかさんで下谷の家も売りに出して。僕ら家族が文京区の借家に移った頃は、親父に実入りがないから借金はかさみ、本当に貧乏になっていた。

中学2年のある日、知らないオジサンが訪ねてきてたことがあって。

「ごめんください」
「ちょっと欽一、いないと言っておくれ」

オフクロがそう言うもんだから、僕が玄関に出ていって、

「今、誰もいないんですけど…」

するとオジサンは「父ちゃんか、母ちゃんがいるだろう、ウソをつくな」と。

ウソをついてはダメとオフクロに教えられて育った僕が、玄関で怖そうな顔をしたオジサンを前に途方に暮れていると、オフクロが見かねて姿を現して。

「貸した分を払ってほしい」

おじさんは近所の商店の人で、月末払いを約束に味噌や醤油や日用品を借りていた。そりゃ払わない方が悪いんだけどね…。

「すみません、すみません…」

オフクロは玄関の板の間に、おでこをぶつけるぐらいにして何回も謝っていた。

──本当に金がねえんだなぁ…

玄関の横でそんなオフクロの姿を目にした僕は、泣けて泣けてさ…。

──お金がないとこんなつらい目に遭う。

悔しかった。オフクロが可愛そうだ、何とか僕がお金を稼ぎたいと思ったものだ。

人前で歌も歌えない上がり性の僕だけど、週刊誌を見ると芸能人はでかい家に住んでいる。二枚目スターは無理だけど、脇役のボードビリアンやコメディアンなら、僕もやれるんじゃないか。

中学を卒業して当時、浅草で人気だったデン助(大宮敏充)さんのところに「弟子にしてください」と訪ねていくと、「高校は出ておけよ」とアドバイスをされて。

「俺、高校に行く」

そう言ったら、オフクロは少し驚いた顔をしていたな。あの頃といえば、白いお米が食べられずに米粒がないおかゆばかりで、おかずはサンマの切り身が半分とか。オフクロは僕らが食べ終えたサンマの骨の間にちょっと残った身をほじくり、骨をしゃぶって。食事が終わった後のサンマの真っ白い骨は、ネコもよけるというぐらいだった。

学校に弁当を持っていけず、昼飯も抜きだった。高校では革靴を履く規則があったけど、革靴なんて買えない。何回も先生に注意されたから僕は新聞配達のアルバイトをはじめた。革靴はすぐに買えたが、

「欽一、アルバイトのお金を少し貸しておくれ」

そうオフクロに言われて。1,700円の高校の月謝は自分で払ったはずなんだけど、アルバイトで稼いだお金が一銭も残らなかった。多分、アルバイト代はオフクロが貯金をしてくれていると、僕は未だにどこかで思い込んでいる。

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