タモリを“発掘”したジャズピアニスト・山下洋輔のラジカルな母と実直な父

 

ピアノは遊び道具、泥だらけの手で鍵盤を触った

親父の転勤で、筑豊炭田があった福岡県の田川市に引っ越したのは、小学3年の時だった。僕は毎日のように炭鉱の子たちと、ボタ山に登ったりケンカしたり。泥んこになって家に帰って来て、外での遊びと同じように泥だらけの指でピアノを弾くので、

「汚い手で、鍵盤を汚すのはダメ!」

オフクロに強い口調でそう言われ、ピアノに鍵を掛けられてしまったことがあった。

子供時代、僕にとってピアノは遊び道具だった。

当時は近所の友だちもしょっちゅう家に遊びに来た。

「よく来たね」

はだしで遊びまわっている泥だらけの子でも、分け隔てなくオフクロはお菓子を出して歓待してくれた。

後年、音楽仲間が我が家に集まり泊まっていくようになったが、オフクロは朝ご飯を食べさせ、楽しそうに僕の友だちと話をしていた。

──若い人には親切にしなくっちゃ、そのうち出世するかもしれないからね。

オフクロはそんなことを思っていたんじゃないかな。

親父は鉱山技師をしていた田川時代も、判で押したように決まった時間に出勤して1分たがわず帰宅する、そんな毎日だった。親父の趣味といえば、たまに付き合いでやるゴルフと麻雀ぐらいか。

──お父さんは音楽とはまったく縁のない人だ。

僕はそう思っていたのだが。田川にいた頃、あれは確か年に何回か、炭鉱で働く人たちが我が家に集まる無礼講のような飲み会の席だった。

その宴席でハーモニカを吹く親父の姿を、たった一度だけ見たことがある。

あの曲は『埴生(はにゅう)の宿』だったか、『故郷の空』だったか。ハーモニカをガバッと抱えるようにして、クワーッと夢中になって、吹きまくるという感じだった。あの時の親父はまるでジャズメンのようだった。

普段は寡黙な鉱山技師、そんな親父のあんな姿を目撃したのは、後にも先にもあのとき一回きりだ。

僕らは3年間ほどで東京に戻ったが、親父はその後も田川の筑豊炭田の勤務で、単身赴任の生活を続けた。

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