オフクロは…、賛成してくれると思っていたのだけれど
大学生だった兄貴が、スウィングジャズのバンドを作ると、僕もバンドに加わり、ジャズピアノを弾くようになる。中学3年の時だった。
ジャズのピアノ演奏は学生時代の一つの趣味、オフクロはそんな感じだったに違いない。でも、僕はジャズ演奏にのめり込んでいった。
──わっ、すごいな……
モダンジャズの新しい和音を耳にするたびに、しびれていた。
高校時代は演奏づけの毎日だった。いいジャズバンドの演奏を聴きに次から次へとジャズ喫茶に通った。うまい人と知り合いになって、ピアノの演奏を教えてもらったり。頭にはジャズのことしかなかった。
高校3年の頃になると、プロのバンドからも呼ばれるようになっていた。お酒を飲ませる店で、ダンス音楽を演奏すればお金にはなったが、僕がやりたいのはジャズの即興演奏だ。
ここにいる僕という人間を表現できない音楽は、弾いていて退屈でたまらない。
──やりたい音楽で暮らせたらいいな……
そんなことを思っていた高校3年の時に、ジョージ川口さんのバンドのメンバーに誘われて、渋谷のジャズ喫茶でジョージさんたちと演奏する機会を得た。
それは僕にとって一生思い出に残る、ものすごい体験だった。
「うちでやりたきゃ、来てもいいよ」
ステージが終わった後、ジョージさんに声をかけられて僕の道は決まった。大学なんか行ってるヒマはない、
──オレはプロのバンドマンになる!
そう決めた。
その日の夜、ジョージさんと演奏したギャラを手にウキウキしながら家に戻った。僕の決めたことに、オフクロは賛成してくれると思っていたんだ。オフクロはこれまで僕の判断することに反対したことがなかったし。
「“ジョージ川口とビッグ4”の演奏が聴きたい」
中学3年の時にオフクロにねだり、2人で有楽町のビデオホールのコンサートに行ったことがあって。
「よかったね」
と、オフクロと一緒になって感激したことがあったから。そんな憧れのバンドのステージで僕はピアノを演奏して、こうしてギャラをもらった。これからジョージさんのバンドのステージで、演奏できるのだ。これほどのチャンスがあるだろうか。自分のやりたい音楽で、暮らしていける道筋がついたんだ。
オフクロは「よくやった、よしよし、もうこれで安心だ」ぐらい、いってくれるものと思っていたんだ。ところが―、オフクロは冷たかった。僕の話を聞くと、
「ふーん……」
気のない目つきで僕を見て。
「洋輔、そんなことでいいのかい」
と。
「趣味で演奏するのはいいけど、それを仕事にするとなると話は違う。お酒を飲ませるような場所でピアノを弾くなんて、そういう水商売の世界はなんか暗黒街みたいな、ヤクザの人たちの世界のようだ」
「そんな世界に入っていかれたら、親としてはたまらないよ」
みたいなことをオフクロに言われたんだ。
僕は非常に憤慨した。真面目に考えて自分の道を進もうとしているのに、
──ひどいじゃないか!
オフクロにそう言われた僕は部屋に鍵をかけて閉じこもり、一晩中ピアノを弾いていた記憶がある。
あのとき、オフクロもホロッと涙を浮かべていたような気もしている。
それからしばらく、オフクロとはケンカ状態が続いた。
そういえばその頃、一度だけ福岡の田川から戻った親父とオフクロと、3人で話した思い出がある。そのときの言葉だったか、
「バカ」「やめろ」
と。
ジャズの演奏で生きていきたいという僕に、覚えている親父の意見はこの二言だけだ。
「すぐに決めず、大学に行って考える時間を持ちなさい」
そんな言葉で執拗に僕を説得していたオフクロは、妥協案として、
「洋輔、音楽大学というのがある」
と。
オフクロへの義理立てという気持ちもあった。ジャズもクラシックも音楽ということでは変わりがない。ピアノがうまく弾けるようになるためなら、何でもやりたいと思っていた僕は、オフクロの提案にうなずいた。音楽大の作曲科に進んだ。
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