またも潜り込む竹中平蔵。岸田政権「新しい資本主義」の大ウソを暴く

 

「資本主義の終焉」をこそ語るべき

水野和夫が言うように、本質的な問題は「資本主義の死期が近づいているのではないか。……資本主義は『中心』と『周辺』から構成され、『周辺』つまり、いわゆるフロンティアを広げることによって『中心』が利潤率を高め、資本の自己増殖を推進しているシステム」であり、にもかかわらず「もう地理的なフロンティアは残っていない」ということである(『資本主義の終焉と歴史の危機』集英社新書、2014年刊)。

資本主義は武力を背景に「周辺」から搾取し掠奪した富の一部を本国の労働者にも分配し、そこそこの豊かさを享受させてなだめすかし、その懐柔策が効いている限りは彼らに普通選挙権を与えても支配体制を転覆されることはないだろうと高をくくってきた。それが「中間層」というものである。

ところがフロンティアの拡張を望めなくなった資本主義は、にもかかわらず飽くなき利潤を求めるその貪欲な本性ゆえに、今まで飼いならしてきた本国の中間層を食い荒らし始める。いま先進各国で一様に起きている格差や差別や憎悪の問題とは、もはや中間層を飼い殺しておくだけの余裕を失った資本主義が、恥も外聞もなく、タコが自分の足を食うかのような凶暴性を発揮しつつあるという凄惨な事態を意味している。

その時に、日本でだけは「分厚い中間層の(再?)構築」が可能であるなどと、岸田も経産省も、もしかしたら野党も、どうして考えるのか。ノーテンキに過ぎないか。

中国の「資本主義」も研究対象であるべき

上述の経産省資料「新しい資本主義」が、「世界各国で『新しい時代の資本主義経済』が模索されている背景」として、「権威主義・国家管理経済と民主主義・資本主義経済の競争が激化する中、民主主義・資本主義の体制が、様々な社会課題を解決できることを示さなければ、こうした体制への信任が失われ、戦後の国際秩序が崩壊する」などと、「体制間」のイデオロギー対立があるかに言うのは、全くの間違いで、それは冷戦時代の「体制間対立」感覚へのノスタルジアにすぎない。

今や中国やロシアでさえも経済システムの基調は「市場経済」である。しかし、市場を野放しにすれば全てが巧く行くという米欧の単純な「新自由主義」の失敗の後では、市場に任せていいのはどこまでで、それが行き過ぎた時に政府が介入するのはどのような手法によるべきなのかという「市場と政府介入」の兼ね合いこそが世界共通の最大関心事である。

例えばの話、中国の共産党一党支配という政治システムを残したままの改革開放路線というのも、初期的には「開発独裁」の一形態として一定の意味があり、そこから脱して世界第2の経済大国にまでのし上がってくる過程では、それを「政府によって適度に管理された市場経済」の巨大な実験として試行錯誤を続けていて、そこから学ぶべきことは西側にとっても沢山あるのではないか。

「成長しない」という選択の新しさ

とはいえ、中国にはまだまだ伸び代があって、それは国内市場の大きさと「一帯一路」路線を通じた海外需要の取り込みの可能性による。それを日本が真似しようとしても無理で、成熟どころか爛熟に達し、急速な「人口減少社会」に突き進んでいるメガトレンドに素直に従って、むしろ「成長しない」ことを積極的に選択することこそ、本当の意味で「新しい資本主義」なのではないか。

ところが資本主義は成長しないと、すなわち利潤率を上げないと、生きていけないところに本質があるので、「成長しない資本主義」というのは形容矛盾で成り立たない。ということは「成長しない」新しい経済システムは「資本主義」ではありえない。それでは「社会主義」なのかと言えば、これは資本主義以上に激しい成長追求理念なので、モデルとして役に立たない。そうするとやっぱり、市場経済の利点は大いに活かしながらも一定の公的コントロールを施すのは当然という「第3の道」路線となるのだろうか。

何々主義と、何事もそれ一本槍の「主義」を名乗ることさえももう止めにして、成長を第一としない経済のあり方を何と呼べばいいのか。問われているのはその議論だと思うが、いまの政界ではなかなかそこに行き着かない。

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