ここにもプーチンと習近平の影。カザフスタン暴動の勝者と敗者

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ロシアと中国に国境を接し、地下資源に恵まれた豊かな国・カザフスタンで起きた大規模な暴動。同国大統領から要請を受けたロシアが主導する部隊により鎮圧されましたが、カザフスタン独立以来最大の死者を出したこの暴動の裏には、どのような事情が潜んでいるのでしょうか。今回の無料メルマガ『ロシア政治経済ジャーナル』では国際関係ジャーナリストの北野幸伯さんが、その背景をロシア留学の経験を交えつつ解説。さらに当暴動の「勝者と敗者」について論じています。

カザフスタンの乱、勝者と敗者

年明け早々騒がしかったのが、中央アジアの旧ソ連国カザフスタンです。ここで年明け、ガス料金が2倍になった。そのことをきっかけに大規模デモが発生。一部が暴徒化しました。

カザフスタンのトカエフ大統領は、ロシアのプーチン大統領に支援を要請。ロシアとカザフスタンは、「集団安全保障条約」を締結しています。この条約には、二国の他に、ベラルーシ、アルメニア、キルギス、タジキスタンが加盟している。そして、ロシアを中心とする多国籍軍がカザフスタンに到着し、大規模デモを鎮圧したのです。

ざっくり話しましたが、普通の日本人であれば、「なんのこっちゃ」という感じでしょう。もう少し細かくお話しましょう。

カザフスタンとは

まず、事件が起きたカザフスタンについて。既述のようにカザフスタンは、中央アジアにある旧ソ連国です。中央アジア最大の国。ロシアの南に位置し、カザフ南東部は中国とも国境を接しています。

カザフスタンの地政学的重要性は、「大国ロシアと中国の間にあること」でしょう。カザフ人の顔はアジア系です。しかし、日本人とは違い、モンゴル人と同じような顔をしている印象です。

既述のようにカザフスタンは、かつてソ連の一部でした。1991年12月、ソ連崩壊直前に独立を宣言しています。私がモスクワに住んでいたころ、カザフスタンは、「中央アジア一の豊かな国」という印象でした。今もそうですが。

同じ中央アジアの旧ソ連国でも、キルギス、タジキスタン、ウズベキスタンは貧しく、モスクワに出稼ぎがたくさんきていました。彼らは、男性なら、タクシー運転手、建設労働者、道路清掃などをしていた。女性なら、スーパーのレジ係、家政婦、ベビーシッターなどをしていました。モスクワで雪の降る日、道路の雪かきをしているのは、ほとんど中央アジアの人たちでした。

ところがカザフスタンからの出稼ぎはいなかったのです。なぜ?カザフスタンは、資源大国だからです(2020年時点で、石油生産世界14位、石炭生産8位、ウラン世界1位)。カザフは2000年から2008年まで、9~10%の急成長をつづけていました。この時期、原油価格が右肩上がりであがっていったからです。08年夏、原油価格はバレル=140ドル台まで暴騰していました。それで、カザフスタンは大儲けしていた。この辺の事情は、ロシアと同じです。

ソ連崩壊後、初代大統領はナザルバエフさんでした。彼は1991年、独立カザフスタンの大統領になり、なんと2019年までその地位にあった。28年つづいた長期政権でした。そして、経済が好調だった2000年代、ナザルバエフの支持率は高止まりしていました。当然でしょう。しかし、「100年に1度の大不況」が起こった08年以降、かつての急成長はできなくなった。2011年から2020年までのGDP成長率は、平均3.48%になっています。理由は、シェール革命の進展で、原油価格が以前ほど上がらなくなったことでしょう。10年間の平均が3.48%といえば、日本人にはうらやましいですが…。コロナ禍の2020年、マイナス2.6%でした。

カザフの二重権力

2019年3月、ナザルバエフは大統領職を引退しました。そして、外相、上院議長を務めたトカエフさんが大統領になったのです。

しかし、ナザルバエフは、影響力を保っていたのです。彼は、「国父」とよばれ、「国家安全保障会議」の「終身議長」という立場をゲットした。2019年には首都アスタナの名称がナザルバエフの名前である「ヌルスルタン」に変更されました。

これって、想像してみるとすごいことです。たとえば北京の名称を「近平」、モスクワを「ヴラディミル」、ピョンヤンを「正恩」とするような。普通に考えれば、「大丈夫かなこの人」という感じでしょう。

ナザルバエフ前大統領とトカエフ現大統領。この二重権力が、カザフスタンをややこしくしていたのです。

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