「中国が世界で一番信用できない」韓国人が日本より中国を嫌う訳

 

中国も韓国も歴史の捏造が大得意であることは言うまでもありませんが、朝鮮半島が中華王朝の「千年属国」であったことは歴史の事実です。李氏朝鮮の「朝鮮」という名前は、明の皇帝から下賜されたものです。

朝鮮は、「君子の国(邦)」や「礼儀の国」と称されるのを誇りにしていますが、それはまさしく属国としての誇りにほかなりません。もともと「君子の国」や「礼儀の国」とは、宗主国である中国が、天朝冊封体制下のなかで臣属した夷狄に対して下賜する誓詞でした。中国では、上国と下国、宗主と属国の礼を忠実に守る国に対して、忠実な属国である証としてこうした称号を与えるしきたりだったのですり「礼儀の国」を現代語訳すれば、「韓国は中国の属国」であるという宣誓なのです。

実際、洪翼漢の『尊周彙編』によれば、「列聖相承、世藩職を修め、事大一心」とあります。要するに、中華の天子へ忠実に諸侯の礼を尽くしてきたということです。中華帝国からすれば、この「千年属国」の朝鮮こそがもっとも忠実な模範属国でした。執拗に抵抗し、ひとすじ縄ではいかないベトナムに比べれば、まさしく「礼儀の国」そのものだったでしょう。

中華帝国の属国における歴代の国王は、原則として天朝皇帝の臣下とみなされ、皇帝によって任命されます。天朝の朝廷は、属国の王妃や太子の廃立に至るまで、権限をふるうことができました。朝貢は、中華帝国の礼部(文部省)が管轄していました。

属国であった朝鮮王国を実質的に指揮、監督していたのは、天朝の北洋大臣や直隷総督、あるいは任命を受けた代理人です。つまり、国王とは形だけのものであり、決して主権国家の元首としての役割は果たしていなかったのです。

清朝の時代、満州人(タルタル人・タタール人)支配下の17世紀初期の朝鮮半島事情については、帆船の漂着により朝鮮に抑留されていたヘンドリック・ハメル著『朝鮮幽囚記』(生田滋訳、平凡社)に比較的詳しく記述されています。救出後のハメルの報告によれば、朝鮮国王は絶対的権力を持っているものの、後継者を決める際はタルタル人(満州人)の汗(王)の同意を得なければならず、また、タルタル人の勅使や兀良哈(満韓国境の少数民族・オランカイ)は、年に3回貢物を徴収しにくる。朝鮮高官はタルタル人に怯え、ワイロを送って口止め料を支払っていたそうです。

朝鮮国王は、満州人の使節が来ると、みずから高官を従えて迎恩門まで歓迎に赴き敬意を表し、宴会を催し、芸を披露して接待しなければなりませんでした。太子は慕華館で勅使に酌の礼をするのが最大の役目だったのです。

もちろんこれは、現在行われているような、国賓を出迎えるため空港に儀仗隊を整列させるといった儀礼とはまったく異なる性質のものです。

しかし、これだけ天朝に尽くした朝鮮も、逆に朝鮮の朝貢使節が北京詣でをする際は、朝臣が出迎えの礼を受けるどころか、諸侯の礼さえ受けられない粗末な待遇でした。宿泊先も迎賓館などではなく、百官と同じ粗末な宿です。

そもそも、中国の属邦のなかでも朝鮮の地位はもっとも低く、下国のなかの下国でした。天朝の朝賀の席では、千官が赤色の礼服を着ていたのに対し、朝鮮の使臣だけは黒色の丸首の衣です。

また、琉球の使臣は駕篭に乗って宮廷に入るのに対し、朝鮮の使臣は駕篭に乗ることを禁じられていたと、尹昕の『渓陰漫筆』に書かれています。そして、李朝時代の臣民は琉球以下の扱いを受けていたと嘆いてもいます。

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