では、これを提案した読売新聞のねらいは何か。もちろん、府に食い込めば、取材がしやすくなるだろう。だが、それよりも営業上のメリットを重視したに違いない。大阪府の職員は警察や公営企業を含め7万人近くもいる。販売戦略を立てやすくなるのは確かだ。
背景にあるのは、新聞購読者数の減少である。日本新聞協会が2021年12月下旬に公表したデータによると、同年10月時点で日刊紙97紙の総発行部数は、前年比5.5%減の3,065万7153部だった。
2011年には4,400万部だったことを考えれば、恐るべき落ち込みようである。かつて販売部数1,000万超と吹聴していた読売新聞も738万部ほどに減り、うち大阪本社分は189万部と、例外なく凋落している。
その昔、大阪読売はそれなりに気概のある新聞社だった。
1874年に東京で創刊された読売新聞が、朝日、毎日の地盤である大阪に進出し、「大阪読売」という新聞社を設立したのは1952年10月のことである。
その後、読売新聞大阪本社と商号を変え、ナベツネこと渡邉恒雄氏がいて保守色の強い東京本社とは一味も二味も違う新聞を発行していた。
とりわけ記憶に残っているのは「黒田軍団」と呼ばれる社会部内のグループだ。黒田清社会部長が率い、1970年代から80年代半ばにかけて弱者の視点から異色の記事をつむぎだし、大阪読売の一時代を築いた。
戦争の悲惨さを訴える連載で菊池寛賞を受けた黒田氏らは84年にポーランドでの原爆展を企画した。これが社論の右傾化を強めようとする渡邊氏の逆鱗に触れた。原爆展を終えてポーランドから帰国した黒田氏は社会部長のポストを追われ、軍団の面々は部内の閑職か地方支局に飛ばされた。
その後、渡邊氏は社内に憲法調査会のごときチームを設置して「憲法改正試案」をまとめ、紙面で発表するなど、政治への関与をいっそう強めてゆく。渡邊氏の思惑通り、大阪本社の紙面もしだいに東京の色に染まっていった。
95歳になった今も読売新聞グループ本社代表取締役主筆を続ける渡邉氏が、安倍政権を支援してきたことは周知の通りだ。権力に近づこうとする読売の体質は、渡邊氏という“独裁者”に支配されてきた報道機関が持つ負の側面だ。
大手新聞ほど、権力に庇護されている民間企業はない。国有地を安く払い下げてもらってそこに本社を建て、電波利権を与えられてテレビ局を開設し、なおかつ新聞だけは公取委に再販制度を黙認させて、新聞価格を高く維持している。
しかも大阪府市の場合は、維新という政党が密接にからんでいる。維新の側から見ると、大阪府を利用して読売新聞を取り込む図式だ。
だからこそ、普通の民間企業や地方紙よりもはるかに、権力との距離を保つことに神経を使う必要があるのだ。今回、読売新聞大阪本社はその点を見誤った。大阪本社の柴田岳社長は元々、東京読売の論説委員や常務をつとめた人である。
最近、大阪府と大阪市はアベ・スガ官邸における密室政治の中心人物だった和泉洋人元首相補佐官を特別顧問にした。加計学園の獣医学部新設を企んだ安倍首相の“密使”として、当時の前川喜平文科事務次官に「総理は言えないから私が言う」と設置認可するようプレッシャーをかけた人物だ。前川氏に関するスキャンダルめいた記事を読売新聞に書かせた件にもからんでいると疑われている。
大阪府と読売新聞の結託、和泉氏の大阪府市特別顧問への就任。それらは万博やカジノリゾートにつながる一連の動きのような気がしてならない。
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image by: 大阪府公式HP