東日本大震災から11年。孤独な心に閉ざされた被災地高齢者たちの叫び

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2011年3月11日。東日本大震災が起こったあの日をあなたは今も覚えているでしょうか。今回のメルマガ『デキる男は尻がイイ-河合薫の『社会の窓』』では健康社会学者の河合薫さんが、 現在の被災地の方々の様子を語り、その悲痛さについて私達に思考を促しています。

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11年目の“あの日”

東日本大震災から、まもなく11年です。あの時と同じ、金曜日。2011年3月11日金曜日の午後2時46分。みなさんはどこで、何をしていましたか?

私は……JR水戸駅のホームにいました。講演会が終わって、駅まで送っていただいた数分後に、生まれて初めて「死ぬかも」という恐怖に直面しました。そして、周り方の助けがあり、翌日の昼に、東京の自宅に戻ることができました。

11年前を思い出すと、かなり昔のように感じます。
恐怖体験のショックから、ひと月ほど立ち直れなかった記憶も薄れてしまいました。

しかし、被災した人たち、日常をあっという間に奪われた人たち、大切な人を突然失った人たちにとっては、今も“あの日”が続いているのです。

岩手、宮城、福島の被災3県の仮設や災害公営住宅で、一人暮らしで亡くなった人が、21年までに683人に上ることがわかりました。

うち7割が65歳以上の高齢者です。しかし、一方で、40代や50代の中高年の孤独死も少なくありません。

特に、被災地の住宅政策のゴールとされてきた災害公営住宅での、孤独死が相次いでいることは、本メルマガVol.116(2019年3月13日発行)の裏返しメガネでも取り上げましたが、今も深刻な状況は続いています。

災害公営住宅で孤独死が増えた原因のひとつが、住宅の“カタチ”です。

仮設住宅では、阪神淡路大震災のときの教訓を生かし、そこで暮らす人たちが「つながる場」が作られていました。

私自身、雄勝や渡波、郡山に避難した人たちが暮らす仮設に、何度もお邪魔しましたが、どこの仮設にも集会所があり、そこでみんなでご飯を食べたり、お茶を飲みながらおしゃべりをしたり、ボランティアがイベントをしていました。

一方、災害公営住宅はプライベートが確保された独立した部屋です。
隣に誰が住んでいるかもわからず、誰とも会わないことも珍しくありません。

仮設が長屋スタイルだったのに対し、災害公営住宅は中層階のマンション。どこに入居できるかが抽選で決められたため、同じ地域、同じ仮設の人とも離れ離れになってしまった人がほとんどです。

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