水野は老中に成りたくて、成りたくて仕方がなかった男でした。老中に成るには老中にふさわしい見識ばかりか、現職老中や若年寄の引き立てがものを言いました。引き立てられるには、はっきり言って賄賂です。水野はせっせと賄賂を贈りました。お蔭で奏者番に成れたのですが、その時水野は肥前国唐津藩主でした。唐津藩主は長崎警備の任がある為、幕閣の中枢を担うことがないのが慣例でした。
この為、水野は幕府に浜松藩への転封を願い出ました。唐津藩は表高こそ六万石でしたが、実質二十五万石の豊かさでした。ところが浜松藩は、表高は同じ六万石ですが実質は十五万石余り、唐津藩からすれば大幅な減封になります。家臣は猛反対しましたが、水野は老中になるという執念で反対を押し切り、浜松藩に移りました。この時、家老が水野を諫めようと切腹しています。
そうまでして水野は老中に上り詰め、「天保の改革」を推進したのです。権力欲ばかりか政治に対する強い思いがあったのは確かでしょう。
ともかく、特例で老中となった幸貫ですから、水野忠邦が老中を辞すると幸貫も辞職しました。幕政と関わらなくなり、幸貫は藩政に専念します。藩校を充実させ、殖産興業を奨励しました。また、老中として海防を担っていたことからしても、西洋の文化、技術に関心が強く、藩内でも西洋の学問を奨励しました。幕末に活躍した佐久間象山は松代藩の藩校で西洋の学問を学んだ逸材です。
松代藩は幸貫がお国入りしていたのが不幸中の幸いであったのですね。
改めて非常時のリーダーの在り方について考えさせられます。
(メルマガ『歴史時代作家 早見俊の「地震が変えた日本史」』2022年9月2日号より一部抜粋。この続きはご登録の上、お楽しみください)
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