震災時にも失わぬ冷静さ。真田幸貫に学ぶ非常時の指導者の在り方

 

真田幸貫には面白い逸話があります。

幸貫は松平定信の長男として産まれましたが、母親が側室であった為、11日後に誕生した正室の子が嫡男とされたことは前述しました。松平家の家督を継ぐ資格はなく部屋住みだったのですが、れっきとした大名の子です。その身分ながら幸貫は供も連れず、お忍びで江戸市中を散策するのを好んだとか。真田家に養子入りする話が持ち上がった時には、浪人姿に身をやつして松代藩の領内をつぶさに見て回ったそうです。

江戸時代のお殿さまは自藩の領内に家督相続をしてから入ります。幕府の大名統制の一つ、大名の世継ぎと妻は江戸で暮らすことが強いられていたからです。つまり、人質ですね。従いまして、大名は家督を継いでお国入りするまで自分が治める国、領知を知らないのです。江戸で誕生し、成人してから領知に赴く、現代の国会議員も東京で育ち、東京の大学を出て父親の選挙区の地盤を引き継いで当選しますね。

お国入りは参勤交代で行われます。参勤とは領知から江戸に赴き将軍に御目見えすることです。いずれの大名も参勤交代の義務があったのですが、御三家の水戸徳川家はその義務を負いませんでした。

いや、当主の間は江戸に定府することが課せられ、お国入りを許されなかったのです。江戸にあって将軍を補佐する為の処置だったのですが、水戸家は参勤交代の義務がない特別の家柄だと誇りました。江戸に常駐することから、いつしか水戸家の当主は庶民から副将軍と呼ばれるようになります。幕府に副将軍という役はないのですが、庶民は将軍さまに意見を言ってくださるありがたい存在として水戸家の当主に期待したのです。

また、水戸家の当主以外でも幕府の役職者、大老、老中、側用人、京都所司代、大坂城代、若年寄、寺社奉行、奏者番に就いた大名は江戸や京都、大坂に留まり、お国入りすることはありませんでした。いきなり老中に成ることはありません。譜代大名の嫡男として誕生し、家督を継いだ後、江戸城内の典礼を司る奏者番に選ばれ、その中から寺社奉行を兼ねる者が老中への道を歩みます。

譜代大名は136家あり、奏者番は20人から30人が定員でした。寺社奉行は4人です。寺社奉行に成った者はその後、若年寄、大坂城代、京都所司代を経て老中に昇進します。老中に就任すると死ぬまで務める者が珍しくありませんでした。ですから、老中職のまま死んだ大名はほとんど自分の領知に帰ることはなく、江戸や京都、大坂で暮らしたのです。

言うまでもなく老中は権力者でした。その動向は大名ばかりか庶民も注目していました。この為、老中は江戸城に登城、あるいは江戸城から下城する際、一行は迅速に移動しました。老中が急いで登城、下城すると、「一大事出来」と受け止めら、不穏な噂が流れます。ですから、いつも登城、下城は迅速に行っていたのです。常に速ければ、それが日常ですから、大事が起きたとは思われないのですね。

前述しましたように真田幸貫は老中を務めましたが定番コースを辿りませんでした。養子入りした真田家は外様です。幕府の役職は譜代大名が担うのが原則ですから、老中への登竜門である奏者番には成っていません。もちろん、寺社奉行や大坂城代、京都所司代も経験していません。老中首座水野忠邦が幸貫の見識を高く評価して老中にしたのです。その際、外様席から譜代席に移されました。

水野は松平定信を尊敬し、定信が行った、「寛政の改革」をお手本として、「天保の改革」を推進しました。幸貫を異例の人事で老中にしたのは定信の息子という理由もあったでしょう。

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