私が印象的だったのは、英語では主語に注目するのに対し、日本語では状況の中に共存するということです。
例えば、小説『雪国』の冒頭の「国境の長いトンネルを抜けると、雪国であった」という文を考えてみましょう。
日本語の文だと、話者の視点は列車も主人公も風景もすべてが溶け合って見ているイメージです。
これが英訳されたものになると、主語がThe trainとなるのでどうしても電車の外に視点があるのです。
また、「太郎が花子が好きである」という文を考えれば、日本語なら愛の中に二人がいるという印象ですが、英語では太郎が花子にアプローチしている印象となるのです。
オレがオレがの英語と一体となって共感する日本語の差は大きいのです。
日本語の文にほとんど「わたし」が表れない…自分の見えている状況の中に「わたし」はいます。すると、「わたし」は話し手に見えなくなります(p121)
確かに英語は個人に注目するのに対し、日本語は個人が消滅し、状況に注目していることがわかりました。
このことを大きく象徴しているものとして著者が指摘するのは、広島平和公園の慰霊碑に書かれてある「安らかに眠ってくださ 過ちは繰り返しませぬから」という碑銘です。
日本語だから主語がないのです。原爆が投下されたという状況の中にすべての人が置かれているのであり、主語はすべての人なのです。
不思議なことにカナダ人が日本語で考え、話すことで、自分の心の働き方がはっきりと変わるのだという。この本を読んで、日本に生まれてよかったなと思いました。
金谷さん、良い本をありがとうございました。
【私の評価】★★★★☆(84点)
<私の評価:人生変える度>
★★★★★(ひざまずいて読むべし)
★★★★☆(素晴らしい本です)
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