見えてきた信じ難い実態。渋沢栄一の子孫が懸念する、アフリカの期待に全く応えていなかった日本

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干ばつによる飢餓や各国の紛争などから経済危機に陥っていた1980年代のアフリカ。その頃から惜しみない経済支援を続けてきたのが我が国、日本です。現在は中国や韓国もアフリカ進出を目指し始めていますが、日本に先見の明があったと語るのは、渋沢栄一の子孫で、世界の金融の舞台で活躍する渋澤健さん。しかし、渋澤さんは、昨今の日本が「アフリカの期待に全く応えていなかった」という現状を憂いています。

プロフィール:渋澤 健(しぶさわ・けん)
国際関係の財団法人から米国でMBAを得て金融業界へ転身。外資系金融機関で日本国債や為替オプションのディーリング、株式デリバティブのセールズ業務に携わり、米大手ヘッジファンドの日本代表を務める。2001年に独立。2007年にコモンズ(株)を設立し、2008年にコモンズ投信会長に着任。日本の資本主義の父・渋沢栄一5代目子孫。

日本として大切なアイデンティティとは

謹啓 ますますご健勝のこととお慶び申し上げます。

8月下旬に初めて北アフリカに渡航しました。経済同友会アフリカProject Teamのミッションの団員として、チュニジアで開催されたTICAD 8に関連する様々なサイド・イベントに参加するためです。

TICAD(Tokyo International Conference on African Development)は日本政府が1993年から主催しているアフリカ首脳クラスとのハイレベルな政府間の会議です。同会議が発足した頃のアフリカは、干ばつによる飢餓(クイーンなど著名パフォーマーたちが出演したチャリティーコンサートLIVE AIDは1985年に公演)や外国政府からの軍事介入で多発した紛争などから経済危機に陥り、1980年代は「失われた10年」と言われていました。一方、1993年の日本はバブルが崩壊し「失われた時代」に突入していた時代でもあります。

そのような時期に、アフリカ大陸への長期的支援を意思表明した当時の政治決断は評価すべきだと思います。もちろんアフリカ大陸には54か国あるので、国連で数多くの味方をつけたいという国際政治の戦略的な意図もあったかとは思います。ただ当時のアフリカに対し国家としてまず日本が手を差し伸べ、その後に中国、韓国やその他の国々も類似のアフリカ向け開発会議を設け始めたことからすると、日本に先見の明があったことは確かです。

私自身がTICADの存在を知ったのは2008年に開催されたTICAD IVの時でした。地理的、歴史的、文化的、意識的にも遠いアフリカ向けに開発会議を日本政府が長年かけて主催していることに驚きを覚え、少なからず誇りも感じました。

当時の私は、アフリカ大陸の54か国の総人口が13億人に迫っていて、中国やインドに匹敵する数であり、2050年までには24~25憶人に倍増して世界の1/4がアフリカ人で占められるという推計を知り、アフリカの長期的な成長の可能性に関心を持ち始めていました。人口年齢の中央値が20歳以下である若いアフリカと強固な協力関係を築くことは、少子高齢化が顕著になる日本にとって大切、且つ、当たりまえのことであると思いました。

またTICADの性質は年を重ねて変化しています。2013年に開催されたTICAD Vではアフリカ首脳から「今までの長年の支援に感謝します。これから是非とも投資もお願いします」と政府間支援だけではなく、民間ビジネスの参画にも期待が示されました。更には、5年ごとの開催ではなく、3年ごとに是非現地でというアフリカ勢の依頼に日本政府は応えて2016年のTICAD VIはケニアで開催され、今回のアフリカ現地の開催は2回目になります。

しかし、経済同友会アフリカPTの討議で信じ難い実態も見えてきました。

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