この時期恒例となって10年目を迎えた「気仙沼線写真展」が3月18日まで東京代々木のカフェヌックで開催されています。今年のテーマは「祈り」。この写真展に関わってきたのがメルマガ『ジャーナリスティックなやさしい未来』著者の引地達也さん。東日本大震災で大部分が失われた気仙沼線の成り立ちと現在の姿を伝え、BRTが走る専用道路にかつての鉄路を感じるのは、鉄道時代を知っている人だけかもしれないと、震災から12年が経過しての思いを綴っています。
東日本大震災-気仙沼線の車輛への祈り、BRT駅の3人
東日本大震災の風化を防ごうと続けている気仙沼線写真展は今年も東京都渋谷区代々木のカフェヌックで震災の日を跨いだ2週間、開催されている。
鉄路では戻らない気仙沼線の姿を写真で振り返り、沿岸で過ごしていた気仙沼線沿線の営みを想像し、震災への思いを分かち合う企画で、毎年この時期に開催し10年になる。今年のテーマは「祈り」。
被災地域の復興が進み、防潮堤の建設や高台への引っ越しなどで、かつて街があった地域にはその痕跡が少なくなる中で被災した姿そのままを残す「震災遺構」が過去と未来をつなぐ役割を果たしつつある。
その現実の中で気仙沼線の遺構はほぼなくなっており、この写真展や写真の数々が何らかの形で過去と未来をつなぐ「路」にならないかと考えている。
この写真展は、私が作詞した歌曲「気仙沼線」を発表したことをきっかけに震災で壊滅した鉄路の気仙沼線を写真撮影してきた青森在住の工藤久雄さんに出会い、それら写真の提供を受けたことから始まった。
気仙沼線は1896年、1933年の大地震の被害を受けた南三陸地方が復興のために国鉄に要望し続けた路線であったが、石巻市の前谷地駅と気仙沼市の気仙沼駅間の全線開通したのが1977年12月11日だった。以来、33年3か月にわたり、地域を結ぶ生活路線として、仙台と気仙沼を直接つなぐ脈として機能してきた。
震災前まで走っていた仙台と気仙沼を結ぶ快速「南三陸」を記憶する鉄道ファンは多い。内陸の登米市から志津川からだんだんと海が見え、志津浜から海が間近になり、海沿いのトンネル、岩場の海岸線、海水浴場を通る路線は時に車窓いっぱいに広がる大海原が魅力だったという。
気仙沼線は現在、内陸の前谷地―柳津間で鉄道運行しているが、柳津から気仙沼の間の55・3キロはBRT運行として専用道路を使いながらのバス運行である。震災前から海岸沿いの人口減少で鉄路としての運営は採算に課題があったため、震災の打撃だけではなく、住民の高台への移転は海沿いを走る鉄路の役割も低下させた。
鉄路を専用道路に変えるなどしてかつての気仙沼線の名残をとどめているようにみえるが、それは鉄路を知っている人の見方であり、新しい目からすれば、そこに鉄道があったとは想像できないかもしれない。
今年訪れたBRTの志津浜駅は海を見渡せる高台にあり、かつての
震災から10年経た時も旧駅舎は波の力で看板がなぎ倒されたまま
これまで数回、この駅に訪れているが、一度も人に出会ったことが
この駅の一日の平均乗降客数は3人という。
おそらく朝と夕方の通勤か通学者1人なのだろうか。
今年のテーマを祈りにしたのは、写真の中に祈りを喚起させる何か
それは亡くなった命や未来の守るべき命を敬ったり、私たちが感謝
このテーマの中で、展示された写真に必ず写っている気仙沼線の車
アイボリーとグリーンのツートンや修学旅行用の貸切車輛の深緑は
ここでそんな車輛に出会い、それぞれの祈りに出会えたらと思う。
この記事の著者・引地達也さんのメルマガ
image by: ChiefHira, CC BY-SA 3.0, via Wikimedia Commons