死刑制度にも関係する「自己責任論」。現役小学校教諭が持つ“偏らない心”とは

Asian child feeling sad when go to school with motherAsian child feeling sad when go to school with mother
 

「何事も自己責任」。そういった考えを持っている人は少なくないかもしれません。しかし、複雑な人間社会では「自己責任のバランスも必要」だと、今回のメルマガ『「二十代で身につけたい!」教育観と仕事術』の著者で現役小学校教諭の松尾英明さんは言います。実際に教育現場で起きること、そして、死刑制度などを例に挙げ「自己責任論」についてご自身の考えを伝えています。

自己責任論に偏らない

<構造が簡単で、その動きを予測するのが容易なものを単純系という。(「コトバンク」より引用)>

そうではないものを複雑系という。

人間社会に関わるものは、基本的に複雑系である。予測しづらく、「必ずこうなる」と言えない。だから、常によく見て、バランスをとっていく必要がある。

例えば「自己責任論」というものがある。「全てのことが本人の責任」という考え方である。この考え方一つにも、両面ある。

理がある「自助努力」は必要である。何でも人のせいにするようでは発展が望めない。自らの運命は自らで切り開くのだという信念は、大きなエネルギーを生む。

行き過ぎると、欠点もある。全てが本人の責任となると矛盾が生じる。平和で恵まれた場に生まれるのも、戦地の最中に生まれるのも自己責任となってしまう。事故や災害に巻き込まれるのも全て自己責任になってしまう。

自己責任論は、死刑制度にも関係する。犯罪を犯すのは本人の責任だから罪を背負うべきということになる。しかし、平和で豊かな家庭に生まれ育った人間と、生き地獄のような成育歴の人間、両者が罪を犯す確率は同じといえるか。ゴミ山の「スモーキーマウンテン」で生きていたとしたら、同じ人間であっても、犯罪を働く可能性は格段に上がる。それが平等といっていいのかという問題にもなる。

何事も、複雑系である以上、バランスが必要である。自己責任の感覚をもちつつ、ある程度からは運命という感覚。「人事を尽くして天命を待つ」とは、この辺りのバランスをよく表した諺である。

『不親切教師のススメ https://www.amazon.co.jp/dp/4908983615』は、偏った自己責任論ではない。偏っていると思われる学校の旧来の「常識」に対し、バランスをとるべしということを主張している。

例えば前号でも書いた「けんかを解決してあげない」。自己責任論だと思われるかもしれないが、むしろ逆である。教育の目的とは「人格の完成」を目指すことであり、社会で生きる力をつけていくことが求められる。

【関連】「いじめ」であっても例外なし。子どもを育てる“不親切教師”のススメ https://www.mag2.com/p/news/582179

そう考えると、無暗にけんかの解決をしてあげるというのは、こちらの職務責任の放棄であるといえる。人事を尽くしていない。「守ってあげたからあとの人生で何が起きても自己責任ね」というほど冷たいことはないと考えている。自分で解決する力をつけることは、長期的視点でみて、真の意味で親切である。

例えば何かと話題になった「背の順」。背の高さは自己責任論で説明できるか。明確に「NO」である。

では、背の順で並ぶことに苦痛を「感じてしまう」子どもは「わがまま」なのか。またドッジボールで剛速球を当てられることが非常に恐怖という子どもは「わがまま」なのか。ここには「自分は大丈夫」という人もいる中で、バランスが必要である。『不親切教師のススメ』で投げかけたのは、本当にそれをする必然性はあるのかという問題提起である。

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