さて、今回提議したいのが、「応援合戦」の在り方である。
つまり、応援に順位をつけるかどうかである。
応援とは、競技なのか。
これは明確に違う。
応援は次のように定義されている。(明鏡国語辞典より)
1 困っている人やがんばっている人をはげまし、助けること。
2 競技などで、声をかけたり拍手をしたりして、味方の選手をはげますこと。
つまり応援の本質とは「励まし」である。
勝敗に関わらず、がんばっている目の前の仲間を励ますことを目的とした、爽やかな行為である。
しのぎを削る競争の中の、一服の清涼剤ともいえる。
しかし応援「合戦」になった途端、合戦とは即ち争いであるから、それそのものが競技になる。
味方のための励ましという本質の方ではなく、他と競い勝つことが目的になりがちである。
(この本質の転換については、各種「コンクール」についても同様である。)
そこで、実際に子どもに尋ねる。
「応援合戦に順位をつけなくするのはどうか」
私の経験上だが、多くの場合、特に応援団に立候補するような元気のいい子どもたちから、強い反対の声が上がる。
活発な子どもたちほど、ここに「競争」を求めている。
その方が、「燃える」ということである。(単に今までのものを変えたくないという気持ちもあるかもしれない。)
応援の本質とは異なるが、授業と同じで子どもの側が大人の設定した「ねらい」を考えることはない。
さて、そうして応援で「勝つ」ことを目指して練習することになる。
結果的に「勝つ」のは1チームだけである。
その勝敗判定は、精査された採点基準でもなく、「応援のプロ」が行う訳でもない。
見た人によって、その結果はバラバラである。
平たく言うと、審査する立場の人に「何かいい」と思われたチームが勝利する。
ここに違和感が生じる。
圧倒的パフォーマンスで、誰が見ても大方ここだろうという場合は、まだ問題ない。









