問題は、ほとんどの場合、そこまでの差はつかないという点である。
多人数が全力でやった結果であればあるほど、平均化するからである。
どこも素晴らしい出来で甲乙つけがたい(正直差がわからない)という場合でも、明確に順位がつく。
評価の妥当性に欠くところがあるのは否めない。
その結果を受け止めるというのも大切だと言えば大切だが、いつでも釈然としないのは事実である。
そもそも「競技」ではない応援を競技化しているという根本に無理があるのだから、致し方無いというしかない。
(その点が、徒競走等の本質が競争で順位がはっきり見えるものとの明確な違いでもある。)
また、令和のこの時代に、あの形の一斉一律行動は必要な教育なのかも考えどころである。
応援合戦は、旧来の教育方法として最適だったものである。
全員一律、一斉行動をし、雄叫びを上げさせて奮い立たせる。
(今でもライブやスポーツ観戦の際に使うかもしれないが、それは多分学校でやらなくても自然にできる。)
一律行動が苦手、あるいは大声や騒音が苦手な子どもにとっては、精神的苦痛を伴う行為である。
特別支援の視点での個別の対応も考えるべき点である。
応援を「合戦」にすることにも、ある面での教育的価値がある。
コンクールに価値があるのと同じである。
競う相手が存在し勝利を目指すことで、互いに高め合えるという面が確実にある。
しかし同時に、その弊害、マイナス面への検討もした上で、どちらを選択するかである。
プラスの面の大きいものほど、マイナスの面も大きいからである。
大きなプラスを求めるためには、それ相応のコストもかかる。
つまり気楽に楽しむだけという訳にはいかなくなるし、コストをかけた分、結果への責任も伴う。
また、勝敗をつけるということは、順位を付けるということにもつながる。
この場合、勝者と敗者を生んで、結果を分断することが集団全体にとって本当にいいかどうかは検討すべきである。
つまりは、教育として求めるものと、子どもの実態をきちんと検討することによって、初めて最適な選択が決まるはずである。
これは、あらゆる教育活動にいえる。
それは、本来的に競争させるべきものなのか、否か。
いつでもどちらかが正解という訳ではなく、どちらを選択するか、常に検討する価値がある。
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