400万人殺害説も。今振り返るキッシンジャー元米国務長官「100歳の生涯」の裏

 

ベトナムからの「不名誉な撤退」というキッシンジャーの猿知恵の結末

キッシンジャーへの平和賞授与に反対した2人の委員が挙げた最大の理由は、米国のカンボジアやラオスに対する違法な爆撃や地上軍事作戦だった。

1968年11月の米大統領選で共和党のニクソン候補のブレーンとなったキッシンジャーは、民主党のジョンソン政権の下で泥沼化していたベトナム戦争から米軍を「名誉ある撤退をさせる秘密の方策」があるとニクソンに演説させ、国内の厭戦気分や反戦世論に取り入ろうとした。

著名な調査報道記者セイモア・ハーシュのキッシンジャー評伝『権力の代償』などによると、実はこの時、ジョンソン政権は水面下でハノイと停戦交渉を進めていて、選挙前に合意を達成して民主党ハンフリー候補を優位に導こうとしていた。それを成功させたのではニクソンの当選は覚束ない。そこでキッシンジャーは、サイゴンの反共傀儡政権に密かに働きかけて和平に反対する強硬姿勢をとらせ、交渉を潰した。

それで権力を握ることに成功したニクソンとキッシンジャーは、69年1月にホワイトハウス入りした1カ月後に早くも「秘密の方策」に着手した。それは、北ベトナムから南ベトナムに兵員や武器など軍需物資を供給するためラオス及びカンボジアとの国境地帯に設けられたいわゆる「ホーチミン・ルート」を壊滅させるため、カンボジアに戦火を拡大。69年2月から70年4月までに「11万トンの爆弾をバラ撒いた」と言われたが、サイゴン政権と南ベトナム軍の崩壊状況を止めることは出来なかった。そのためキッシンジャーはCIAを通じて反共派のロン・ノル将軍を動かしシアヌーク政権を転覆し、米軍と南ベトナム軍の合同部隊をカンボジア領内に侵攻させロン・ノルを支援しようとたが、失敗に終わり、同国を極左派クメール・ルージュのポル・ポト書記長に明け渡しただけに終わった。さらにカンボジアの北のラオスに対する爆撃と地上掃討作戦も強化したが、それも失敗した。

結局、68年にジョンソン政権の下で成就するかもしれなかった和平をキッシンジャーが横取りしようとして、戦争を75年のサイゴン陥落まで7年間も長引かせてしまった上、隣国のカンボジアとラオスにまで拡大させ、その分だけ死ななくてもよかったたくさんの兵士のみならずベトナム、カンボジア、ラオスの市民が死んだ。それらの何十万とも知れない死者は「キッシンジャーに殺されたのだ」と、ジャーナリストのスペンサー・アッカーマンは『ローリング・ストーン』ウェブサイト11月29日付に寄せた論考で弾劾している。

もちろんその間、73年1月にはレ・ドク・トとキッシンジャーが和平協定案をまとめ上げ、直ちに北ベトナム及び南ベトナム臨時革命政府の外相、米国のロジャーズ国務長官及び南ベトナムの外相の4者間で調印され、それを理由に秋にはノーベル賞も授けられた。が、北ベトナム軍と南の解放軍は攻撃の手を緩めず、75年4月30日にはサイゴンを完全包囲、米軍人や大使館員、南ベトナム傀儡勢力の要人たちは命からがらヘリで海上に待機した米空母に逃げなければならなかった。考えうる最も「不名誉な撤退」を強いられ、ベトナム全土を北ベトナムに献上したのが、キッシンジャーの猿知恵の結末である。

この記事の著者・高野孟さんのメルマガ

初月無料で読む

print
いま読まれてます

  • 400万人殺害説も。今振り返るキッシンジャー元米国務長官「100歳の生涯」の裏
    この記事が気に入ったら
    いいね!しよう
    MAG2 NEWSの最新情報をお届け