400万人殺害説も。今振り返るキッシンジャー元米国務長官「100歳の生涯」の裏

 

400万もの人々を殺した戦争犯罪人キッシンジャー

しかも、アッカーマンが引用しているエール大学の歴史学者グレッグ・グランディン教授の『キッシンジャーの影』によれば、キッシンジャーは、ニクソン及びフォード政権の外交政策を取り仕切ったわずか8年の間にインドシナ半島のみならず世界のあちこちでたくさんの人々を殺していて、「その数は300万とも400万とも推計される」という。

例えば、71年の旧東パキスタン(現バングラデシュ)の旧西パキスタン(現パキスタン)からの分離・独立に当たっては、西パキスタン軍事政権が軍を送り込んでベンガル人の大虐殺を繰り広げ国際社会から非難を浴びている最中、キッシンジャーは西パキスタンの独裁者ヤーヒャ・カーン大統領を公然と支持した。理由は簡単で、カーンはニクソンの72年2月訪中を準備した米中秘密接触の仲介者だったからである。このバングラデシュ独立をめぐる対立でどのくらいの死者が出たかは不明で、独立後のバングラデシュ当局は「300万人」と発表し、パキスタン側は「一般市民の犠牲者は2万6,000人」としていて開きが余りに大きいが、第3国の学者などの調査では「5万から10万」「5万8,000」「26万9,000」などの数字が上がっている(英文Wiki「Yahya Khan」の項)。いずれにせよ大虐殺に変わりはなく、少なくともバングラデシュではキッシンジャーはそれに加担した人として記憶されているのである。

南米チリの70年9月の選挙で大統領に選ばれた社会民主主義者サルバドール・アジェンデを殺したのもキッシンジャーである。チリは銅資源に恵まれているが、60年代までその80%を支配していたのはアナコンダとケンネコットの米系多国籍企業2社だった。アジェンデがその2社を国有化すると発表すると、キッシンジャーは激怒し「アジェンデはカストロよりはるかに深刻な脅威だ」として、CIAの秘密作戦部門を動かしてピノチェト将軍にクーデターを起こさせた。大統領公邸を反乱軍に包囲されたアジェンデは機関銃を撃って戦いつつ死んだ。が、彼は、その後米国の庇護により17年間も続いたピノチェト軍事独裁政権の下で殺されたり投獄され拷問されたりした何万もの犠牲者の最初の1人というに過ぎなかった。

また75年に東ティモールがポルトガルから独立を果たそうとすると、特に社会主義を標榜する「東ティモール独立革命戦線」が有力になるのを恐れたキッシンジャーは、インドネシアを焚き付けて軍事占領させた。99年に占領が終結し、02年に国連の支援を得て独立を達成するまでに10万人以上が虐殺されたと言われている。

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