爆弾テロと関係なく、日本経済は自爆した
そこまでは先進国が空洞化を進める例として、欧米諸国や現在の中国と変わりません。
ところが日本経済の不思議なところは、中付加価値の産業はどんどん外に出していったのに、国内で高付加価値を生む最先端の研究開発は怠った点です。
そのくせ、低付加価値の部品と素材の産業は国内に残すことで、人類の歴史の中では他に例のないような「経済の集団自殺」をやってのけました。
その結果として、アジア諸国には一人あたりGDPや生産性では「追い越されてしまった」のです。
桐島「らしき人」は、恐らく最近の日本経済の低迷と格差の拡大のことは知っていたのだと思います。ですが、若き日の彼らが敵視した日本の企業が、より悪に走って金儲けを続けたために、格差が拡大したのではないのです。
そうではなくて、儲かる部分をどんどんアジア諸国に「献呈してしまい」、国内には儲からない部分だけが残ったという「間抜けな」経営の結果そうなったのです。
「人を殺してまで追求した正義」のナンセンス
1970年には、日本のビジネスマンがインドネシアやシンガポールに出かけて、札びらを切って嫌がられていました。ですが、今は、シンガポールの団体旅行客が日本にビジネスクラスで来て、豪華寝台列車を貸し切って日本を周遊する「一人200万円の豪華ツアー」に参加して札びらを切っているのです。
これに対して、日本人は怒るどころか「おもてなし」などという話になっています。桐島「らしき」人はこうした現象に対して、どう感じていたのでしょうか?
自分たちが爆弾を投げなくても、憎い日本経済が自壊してくれたのだからザマミロと思うのでしょうか?それとも他国に来てカネの力を見せつけている外国人に対して、今度はジジウヨ的な排外思想から憎悪を燃やしているのでしょうか?
あるいは、過去の「国家と対決した栄光の日々」の思い出を胸に「現在のことには無関心」で過ごしてきたのでしょうか?
いずれにしても、この50年間「逃亡に成功したこと」など、どうでもいいことなのです。そうではなくて、50年間に日本経済とアジア経済の地位が入れ替わってしまった中では、この連中が「人を殺してまで追求したかった正義」などというものが、本当に悲惨なくらい滑稽な話になっているということです。
だからこそ、改めて50年前に人の命を奪った罪は限りなく重いと言えます。全くの思い違いと思い込みから行った行為だったからです。
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