九州大学と福岡市民による米軍基地返還運動
そのため、九大の水野高明総長が、米兵の司令官に対して、大学に陳謝に来るよう約束させ、学生たちに米兵を解放するよう説得したが、学生たちは応じず、機動隊が実力で排除してようやく米兵が解放されるという一幕があった。
構内に入れなくなった米軍は、この日、九大に対して、早急に事故機を引き渡すよう求めてきたが、水野総長は、墜落現場で行われていた議論の場におもむき、板付基地の撤退を求める声明文を読み上げた。
同日、在日米軍の司令官らが陳謝しにきたが、水野総長は、基地撤退を読み上げた声明文を手渡し、当面の離着陸コースを変更しろと要求。
米軍機墜落に憤怒していた九大学生たちと福岡市民たちも燃え上がり、板付基地撤去・返還運動へと発展した。
実は、九大への墜落だけでなく、板付基地周辺では米軍機のトラブルが多発しており、約20年間で109件の事故が発生、民間人20人が犠牲になっていたのだ。
1971年には当時のニクソン大統領の軍縮政策と、福岡の市民運動とが相まって基地の返還が決定。 翌72年3月には板付基地は日本に返還され、「福岡空港」となった。
福岡県にとってはかなり大きな出来事だが、そもそも米軍基地だったことが知られていないので、当時学生運動に参加していた「左翼」と呼ばれる世代の人しか詳しく記憶する人はいないようだ。
調べていて驚いたのは、私が読んだ板付基地に関する別の資料に「この返還運動は現在も続いている」と記載されていたことだった。
現在も?
不思議に思ってさらに調べると、空港の施設内に現在も米軍の専用地が残されており、福岡県と福岡市は今も返還を求めているということを知った。
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