玉砕命令から2,000人の台湾人兵士を救った海軍巡査隊長
このように、台湾で神として崇められている日本人は、他にもいます。たとえば、その一人が、広枝音右衛門警部です。広枝は明治38(1905)年、神奈川県小田原に生まれました。日大予科まで進学しましたが、昭和3(1928)年に幹部候補生として佐倉歩兵第五七連隊に入隊。除隊後は小学校の教員となり、やがて台湾にわたって総督府巡査として警部にまで昇進した人物です。
昭和18年から海軍巡査隊長に任命され、2,000人の台湾人志願兵や軍属を連れてマニラにわたり、巡査隊の訓練と治安維持の任務にあたりました。しかし、昭和20年2月、米軍上陸の情報が伝えられると、軍上層部から巡査隊に手榴弾が配られ、全員玉砕の命令が下りました。
広枝は苦慮したあげく、台湾人兵士の命だけは保証するようにと米軍にかけあい、2,000人の隊員に向かって言いました。
「諸君はよく国のために戦ってきた。しかし、今ここで軍の命令どおりに犬死にすることはない。祖国台湾には諸君らの生還を心から願っている家族が待っているのだ。責任は日本人の私がすべて取る。全員、米軍の捕虜となろうとも生きて帰ってくれ」
この言葉に、一同はただただすすり泣くだけだったといいます。広枝は昭和20年2月23日、拳銃で自決しました。40歳でした。このおかげで戦後、台湾人部下たちは全員台湾に帰国することができたのです。
昭和58年、小隊長を務めた劉維添は、かつての隊長が自決した地を訪れて、広枝隊長終焉の地の土を集め、茨城県に住むフミ夫人の手に渡しました。その夫人も鬼籍の人となり、広枝隊長の位牌とともに、かつての部下だった新竹警友会の人々の手によって苗栗県獅頭山の勧化堂に祀られています。
台湾の平地にて崇められているもうひとりの警官は、警察服に警察帽、サーベルを腰から下げて立派なほおひげを蓄えていた森川清治郎巡査です。今では、嘉義県東石郷副瀬村にある富安宮に、彼の彫像が祀られています。
森川巡査は文久元(1861)年横浜に生まれました。台湾にわたったのは明治30年、日本による台湾領有3年目の時でした。森川は家族を連れて台南州の村に赴任しました。警官の役割として治安維持がありますが、森川は決して力で押さえようとはしませんでした。
とにかく仕事熱心、教育熱心でした。小学校がまだつくられていない時代だったため、派出所の隣に寺子屋を建てて子供たちに勉強を教え、農民には農業指導をし、病人には薬を調合するなど、人々の生活全般に細かく心を配ったのです。いってみれば、日本の田舎によく見られる面倒見の良いおまわりさんです。
漁業と農業を兼業しても暮らしが貧しい村の実情を知った森川は、村人のために税金の減免を何度も総督府に嘆願しました。しかし上司は、現地住民から慕われている森川のことを、村人を扇動する反動的分子と見なし、ついに訓戒処分が下されます。
森川は、これに抗議するため、村の慶福堂にて村田銃で自殺をしてしまいました。享年42、台湾に渡ってから5年目のことでした。村人は森川巡査の徳を讚え、生前の姿を模して神体をつくり義愛公と命名して、それを祀ったのです。
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