日本の怪僧文寛です。
文寛は後醍醐天皇の側近として権勢を振るったばかりか、鎌倉幕府打倒に絶大な力を発揮しました。絶大な力とは……なんと彼は●●●●で鎌倉幕府を打倒したのです。
彼が大成した、「真言立川流」は知る人ぞ知る●●●●宗教でした。元になったのは弘法大師空海が唐の国から持ち帰った経典の一つ、「理趣経」です。「理趣経」は●●●●を通じて即身成仏できると説いていました。
この「理趣経」の教えが鎌倉時代に至り、真言僧の最高位阿闍梨となった任寛(にんかん)によって●●●●至上主義の宗派「真言立川流」として開かれたのです。立川流という名称の由来は、任寛が武蔵国立川、すなわち、現在の東京都立川市を拠点としていた陰陽師たちに教義を伝え、彼らが広めたことにあります。
その教えたるや恐るべし。男の精液は白、女の精液は赤とされ、白と赤の和合水、つまり●●●●をして出た愛液を髑髏に塗り、金箔を貼り、魂を吹き込んで髑髏本尊としたのだとか。髑髏本尊を拝めば、望みが叶い、未来が予言できるそうです。
もっとも、髑髏本尊が出来るまでには、相当量の和合水が必要で120回も髑髏に塗る必要があったばかりか、毎夜香を焚き、真言を1,000回唱えねばならなかったのでした。快楽と共に修行を積まね髑髏本尊は得られなかったのですね。
ともかく、「真言立川流」を大成した文寛は後醍醐天皇に気に入られ、大いに暗躍をします。鎌倉幕府打倒を祈願したり、楠木正成、赤松円心を後醍醐天皇に紹介したりして倒幕に力を尽くしました。後醍醐天皇は、「真言立川流」の影響か、乱交を繰り返します。
文寛や近臣たちと酒宴を催し、肌が透けて見える薄着の美女を侍らせました。宴が盛り上がると、男女入り乱れての●●●●へと突入。後醍醐天皇と文寛は乱交を繰り返しながら鎌倉幕府打倒の策を練っていたのです。
果たして、文寛と後醍醐天皇は男女和合の成果、髑髏本尊を完成させたのでしょうか。
image by: Shutterstock.com