現代社会は「才能ガチャ>親ガチャ」になっている
実際、現代日本で社会・経済的にトップランキングに名を連ねる人の数名は、私が知る限り被差別地域の出身者です。
現代日本に被差別階級は無いことになっていますが、少なくとも私がテレビ局に入社した1980年代頃までは、住所地で人を差別する事典のようなものが大企業の人事部でひそかに所有されていて、被差別地域出身の人々や一部の外国籍の皆さんが結婚や就職で明らかな差別を受けるなんてことが横行していました。
だからこそ、そんな差別から逃れるために、自ら起業したり、才能を生かして芸能やスポーツ分野で成功する人が被差別地域出身者に多かったのかもしれません。
現代日本で、かつてのイギリスなどの階級社会では不可能だったことが、日本社会で実現できるのは喜ばしいことです。ちなみにイギリスの階級社会も徐々に変質しつつあり、インドにルーツを持つ人が首相になったのもその表れでしょう。
このあたりの議論は、つまるところ、「社会が目指すべきは結果の平等か、それとも機会の平等か」という古い論点に行き着きます。
残酷な事に、多くの人類社会では、「親ガチャ」以上に「才能ガチャ」の要素が大きいのです。
能力や容姿に恵まれなかった人は、不幸でもしかたないのか?
「才能」の中には、例えば「容姿」なども含まれます。それらの「才能」に恵まれるかどうかは運次第で、まさに「ガチャ」の世界です。
現代の日本社会は、かつてのイギリス社会などに比べて、「親ガチャ」よりも「才能ガチャ」の要素が、社会的、経済的地位を決めるのに重要な役割を果たしています。
「親ガチャ」論で特に問題視すべきは、その社会が「機会の平等が保証されない」場合です。
この議論は結局「結果の平等か、機会の平等か」という論点に行き着きます。「親ガチャ」の問題点が、「親の社会的・経済的力が子供の運命を決めること」だとするなら、逆に言えば、本人の才能次第で運命が決まる「才能ガチャ」の社会は許容されることになります。
機会の平等だけ保証されれば、結果の平等は「本人次第」という訳です。しかしこれでは才能や容姿に恵まれなかった人の人生は暗いものになります。
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