岩倉は文政八年(1825)公卿堀河康親の次男として誕生、幼い頃より公家らしからぬ荒っぽさゆえ、「岩吉」というあだ名がつけられました。
下級公家でありながら持前の胆力と不断の努力、類稀なる行動力でめきめきと頭角を現した岩倉は朝廷政治の表舞台に立ち、活躍を始めます。黒船来航という外圧に加え、幕政における絶対権力者大老井伊直弼が暗殺されて幕府の威光は失墜、日本は国難を迎えます。時はまさしく欧米列強が覇を競い、アジアの植民地化を進めていました。心ある者はうかうかしていると日本も欧米列強の餌食となるという危機感を強めます。
危機感を募らせるのは幕府も同じで、失墜した権威を回復しようと、十四代将軍徳川家茂の御台所に孝明天皇の妹和宮を迎えようとします。いわる公武合体運動の始まりです。賛否両論が沸騰する朝廷にあって、和宮降嫁は幕府に貸しを作り、幕府は朝廷の下で政を行っていると天下に認知させる絶好の機会だと岩倉は天皇に上申しました。岩倉の上申を容れた天皇は和宮の降嫁を認めました。岩倉は勅使として和宮の江戸下向に随行します。
下級公家に過ぎなかった岩倉は天皇の信頼厚い延臣となって岩倉本人も鼻高々でしたが、奢れる者久しからず、というより、時代のあまりにも急激な変化により、岩倉は転落します。時代の機運は尊皇攘夷に加え、反幕府の風潮が高まったのです。
和宮降嫁を推進したことで岩倉は幕府寄りと見なされ、岩倉を嫌う公家たちから排斥運動が起きます。彼らは岩倉を幕府に媚びる奸物だと弾劾し、天皇もこれを受けて岩倉に蟄居、官職を辞し出家するよう命じました。勅使として江戸に向け京都を出発したのが前年の十月、失脚したのは一年と経たない文久二年(1862)の八月のことです。