失脚しただけではなく、岩倉は尊皇攘夷派の志士たちから命を狙われます。このため、京都の郊外、洛北の岩倉村に隠棲しました。一切の活動を禁じられた岩倉は、こうして過去の人となったのです。結局、岩倉は慶応三年(1867)の十一月に赦免されるまで、五年以上蟄居生活を送りました。この間、時代は激動します。蚊帳の外に置かれた岩倉でしたが決して腐らず、信頼する同志の公家たちから情報収集し、自分の考えを文章にして他日を期しました。岩倉の信念と地道な努力はやがて志士たちに伝わり、岩倉村の家を来訪します。
佐幕派の奸物とみなされていた岩倉は地道な文筆活動によって徐々にイメージを変え、岩倉を敵視していた志士たちとの交流が始まったのです。志士たちも朝廷工作に行き詰まっていた事情もあります。文久三年(1863)八月十八日の政変で三条実美以下七人の尊皇攘夷派公卿が失脚、長州藩に落ちて以来、朝廷は幕府と薩摩、会津が牛耳っていました。討幕に加担する公卿はいなくなっていたのです。
佐幕派の奸物から脱した岩倉の噂を聞き、ぽつぽつと訪れた志士の内、キーマンになったのは中岡慎太郎と坂本龍馬です。中岡は岩倉とじっくり語らい、噂とは大違いに深い知識と尊皇心の持ち主だと感服します。岩倉の言葉には決して上辺だけではない真実がありました。隠棲して研ぎ澄まされ磨かれた時局を見る目、いざという時には命を惜しまぬ胆力、普通の公家にはない迫力を中岡は感じました。
中岡はすっかり岩倉に魅了され、坂本龍馬を伴って訪れます。龍馬も岩倉に引かれました。龍馬は人が良く、感心した相手を他人に紹介したがります。龍馬のことです。西郷や大久保に岩倉がいかに優れた公卿か、見方につけると心強いかを熱っぽく語ったことでしょう。
この二人に理解されたのがきっかけとなり、討幕派の志士たちに岩倉具視の名が浸透していきました。
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