ここに至り岩倉は必勝の秘策を捻り出しました。岩倉村の寓居に住まわせていた国学者玉松操が提案した錦の御旗です。天皇の軍、すなわち官軍が掲げる旗、逆に言えば錦旗を掲げる軍が官軍なのです。ところが、錦の御旗が御所の中にあったわけではありません。あれば、親幕派の公家が利用していた可能性は十分あります。有職故実に通じた玉松が古い書籍を紐解き、古来使用された錦の御旗を作ってはどうかと提案したのです。岩倉はこの案を受け入れ薩長に作成させます。慶喜は徳川御三家の水戸家出身、水戸家は大日本史編纂を始めた光圀以来尊皇心の厚い家柄、錦の御旗を掲げる官軍に逆らいはしないだろうと岩倉は算段したのです。
果たして慶喜は薩長軍に錦の御旗が翻ったのを聞き、朝敵となるのを恐れ、大坂城から江戸に帰ってしまいました。岩倉の秘策が功を奏したのです。薩長土佐を中心とする官軍は錦の御旗を掲げて京都から進軍します。
御丁寧に歌まで作られました。「みやさんみやさん、御馬の前にひらひらするのはなんじゃいな。トコトンヤレトンヤレナ。あれは朝敵征伐せよとの錦の御旗じゃ知らないか」トコトンヤレ節に乗り、官軍は幕府を滅ぼし、明治新政府を樹立、岩倉は右大臣として政府の中枢を担い、日本の近代化を推進、自ら団長となって欧米を視察、帰国後は征韓論を巡って西郷と袂を分かちました。
朝鮮に赴くと強行に言い立てる西郷に岩倉は一歩も引かず反対します。その胆力に西郷も感心したとか。
岩倉具視、人間五十年と言われた時代、数え三十八歳から四十三歳という脂の乗り切った時を不遇に暮らしながらも無駄にせず、飛躍の五年間にし、自分自身ばかりか明治維新の花を咲かせたのでした。
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