西郷の「征韓論」は武力征服説だったのか
そうなると、そもそも西郷が唱えたとされる「征韓論」とは何であって、それを原因とする「明治6年政変」とは何であったのかという問題に行き着く。
《定説》では、西郷は朝鮮との国交を開くための使節に任ぜられることを望んだが、それは彼の板垣退助宛の有名な書簡に「使節を差し向ければ『暴殺』されることが予想されるが、自分は立派な外交は出来なくても死ぬくらいのことは出来るので是非自分を派遣してほしい」という趣旨のことが書かれていている通り、自分が命を捨てることで武力侵攻の口実を作ることに真の狙いがあり、これこそ彼が最悪の「征韓論者」であったことの証拠だとされてきた。
しかし、中島も引用・紹介しているように、この《定説》に真っ向から挑んだ話題の書は、毛利敏彦『明治六年政変の研究』(有斐閣、1978年刊)と『明治六年政変』(中公新書、79年刊)で、「西郷は征韓論者などではなく、むしろ平和的・道義的交渉論を展開していた」のであり、上述の書簡の文言はそれこそ強硬論一本槍で即時派兵を主張していた板垣を説得するテクニックにすぎなかったという解釈を打ち出した。実際、西郷が後に太政大臣に提出したこの件に関する「始末書」では、「派兵は適当でなく、武力闘争になってしまえば元々の趣旨に反する。使節に対する暴挙を計るのではないかと疑念を持って、あらかじめ戦争の準備をして使節を派遣するというのは礼を失することになる」という趣旨を述べていて、ここにこそ彼の真意があったと毛利は指摘している。
ここでも中島は、この毛利説への賛否を明言せず、それに対する歴史学者や政治学者の反発を並べて、所謂バランスをとっている。それに対して渡辺京二は、同じく毛利説を紹介しながら、しかし西郷のその文言が板垣への説得テクニックだったという解釈には「それはいささか疑わしい」と注文をつけている。
大久保は西郷を切りたかった
渡辺によると……、
▼西郷は日・清・韓の軍事同盟論者である。仮想敵はロシアで、その脅威に対抗するため朝鮮・満州における軍事行動をつねに考えていた。そのために部下を現地調査に派遣しさえした。軍事同盟は軍事基地の租借を含むものであったと考えられる。
▼朝鮮との国交は、ロシアに対する共同防衛体制の確立のために必要とされた。もし共同防衛を受け入れぬならば、戦争によって朝鮮の現体制を変革することも辞さぬというのが、西郷「征韓論」の実体である。彼の考えでは朝鮮の国益を考慮した上での武力干渉であったろうが、その「道義的」アジア主義が、朝鮮の独立をそこなうものであることは疑問の余地がない。
▼大久保は論点を歪曲した。西郷の主張はさしあたって平和交渉であるのに、それが即開戦を意味するかのように短絡させ、外征か内治かという対立にすりかえた。このすり替えは二重に欺瞞的で、なぜならこの翌年、大久保は江華島事件という典型的な「外征」を自ら行ってみせたからである。
▼毛利は、征韓論争は長州派対佐賀派(とくに江藤新平)の派閥争いが真相で、大久保は長派に利用されて、追い出す必要のない西郷まで追い出してしまったと言う。私の考えではもっとも大事な視点が抜けている。大久保は西郷その人と切れたかったのである……。
私はこの渡辺説にほぼ賛成である。西郷が性急な派兵に反対したからといって、武力を用いたくない平和主義者だったなどということはあり得ない。この時期すでに、満州から朝鮮へと手を伸ばそうとするロシアの脅威は、何派に限らず切迫感をもって受け止められていて、いざとなれば武力を用いても朝鮮を同盟に引き込まなければならないというのは共通認識だった。
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