「征韓論」と「西南戦争」とは何だったのか。定説という“バイアス”を取り除けば見えてくる西郷隆盛の真実

 

中島の三重の引用構造にウンザリ

前回で紹介した中島岳志『アジア主義』は、これについて自身の断定的な意見を述べるのを避けていて、竹内好『日本とアジア』を引用しながらそこに孕まれた曖昧さをそのまま引き継ごうとしているかに見える。

【関連】日本人の情けなさ。「玄洋社はテロ集団でスパイ養成学校」という不良外国人のデマに簡単に引っかかる情弱ぶり

竹内は同書所収の「日本のアジア主義」の中で、大川周明が「北〔一輝〕君は、大西郷の西南の変をもって一個の反動なりとする一般史学者とは全く反対に、これをもって維新革命の逆転または不徹底に対する第二革命とした」と述べているのを引用して、このような「西郷が反革命なのではなくて、逆に西郷を追放した明治政府が反革命に転化していた」という考え方は「昭和の右翼が考え出したのではなく、明治のナショナリズムの中から芽生えたものである」と言いながら、その考え方に竹内自身は賛成なのかどうか明言せず、読者に向かって投げ出すかの次のような一節でその文章を終えている。

西郷を反革命と見るか、永久革命のシンボルと見るかは、容易に片付かぬ議論のある問題だろう。しかし、この問題と相関的でなくてはアジア主義は定義しがたい。ということは、逆にアジア主義を媒介にこの問題に接近することもまた可能だということである。我々の思想的位置を、私はこのように考える。

それをそのまま引用しつつ、中島は次節で西郷の「征韓論」の検討に入るのだが、そのどちらに味方するのかは最後まではっきりしない。

ちょっとややこしいですが、北一輝が明治政府の反革命性に対する西郷の革命性を指摘しているのを、大川周明が引用しているのを、竹内好が引用しているのを、中島岳志が引用している、という三重の引用になっていて、まあ場合によってそういう文章構造の建て方もないではないかなとは思うけれども、それで最後は「自分としてはこうだ」と中島が言い切ってくれないと、何のためにこの文章の薮を掻き分けてきたのか分からなくなってウンザリ感が募る。

渡辺京二の「逆説としての」西郷論

それとの対比で、最初から自分の言葉で「西郷隆盛」論を語り尽くしていて小気味良いのは、渡辺京二である。彼の『評論集成1 日本近代の逆説』(葦書房、99年刊)所収の「逆説としての明治十年戦争」で、《定説》ではその戦争は鹿児島士族の特権剥奪への不平と吉田松陰的な攘夷論に立つ大陸侵略の夢想とが抱き合わさった紛れもない「反動的反乱」であって、もし成功していれば日本は士族の軍事独裁体制に組み敷かれて一切の近代的改革は頓挫していたであろう「反革命の悪夢」に他ならないとされているのに対して、次々に疑問を突きつけている。

西郷に与した諸隊の中に熊本協同隊や中津隊〔や後の玄洋社となる福岡の変の烈士たち〕のような民権派軍事組織が含まれていただけでなく、むしろ後の自由民権運動自体が西郷軍への加担者・同情者の巣窟であった事実を、《定説》信奉者は知らなかったのか。――知らなかった訳ではないが、彼ら「士族民権」の狭隘な限界こそ後の自由民権運動の敗北をもたらした主因だとみなすのが《定説》の立場なのだろう。

福沢諭吉、内村鑑三、中江兆民のような進歩的市民主義的な陣営の人たちが誰よりも熱心な西郷の弁護者であったことを《定説》信奉者は無視するのか。――福沢は最も積極的な朝鮮干渉主義者であり(征韓論)、内村は二宮尊徳を崇拝する困った人物であり、中江は右だか左だか分からぬ誇大妄想家に過ぎず、こうした連中の無節操が問題だと《定説》は言っているようだ。

そのような《定説》からすれば、革命の正義は薩長藩閥政権の側にあり、大久保利通を先頭とする専制主義権力が西郷の反革命的な反乱を鎮圧し、その延長上に天皇制絶対主義を確立していったことは当然の成り行きだったということになる。ここに、《定説》が陥ってしまう最大の逆説がある。

この記事の著者・高野孟さんのメルマガ

初月無料で読む

print
いま読まれてます

  • 「征韓論」と「西南戦争」とは何だったのか。定説という“バイアス”を取り除けば見えてくる西郷隆盛の真実
    この記事が気に入ったら
    いいね!しよう
    MAG2 NEWSの最新情報をお届け