内閣支持率の回復に「黒い雨訴訟」を利用した菅義偉
この世論調査の結果を時事通信社が報じたのは、7月16日でした。そして、この2日前の7月14日、広島高裁は安倍政権時代から6年間も争い続けて来た広島の「黒い雨訴訟」で、原告の住民84人全員を被爆者と認めた広島地裁の一審の判決を支持しました。しかし、これは高裁の判決なので、これまでの流れから考えれば、国は当然、この判決を不服として、最高裁に上告すると見られていました。
上告期限は2週間なので、国は7月28日までに上告しなくてはなりません。しかし菅義偉は、期限の2日前の26日に記者会見をひらき「上告を断念する」と発表し、被爆者手帳の交付などの救済措置を早急に講じると約束したのです。これによって結果的には約6,600人もの被爆者が救済されたのですから、この英断は評価すべきでしょう。しかし、もしもこの時、内閣支持率が高い数字で安定していたら、果たして菅義偉は上告を断念していたでしょうか?
「危険水域」まで落ち込んだ内閣支持率を少しでも回復させるために、菅義偉はこの訴訟を利用したのではないでしょうか?
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この時あたしは、ある出来事が脳裏に蘇りました。20年以上も前のことなので、一定以上の年齢の人しか覚えていないと思いますが、史上最低の内閣支持率で退陣に追い込まれた森喜朗の後継として、2001年4月の自民党総裁選に出馬した小泉純一郎は、主婦層に人気のあった田中真紀子とタッグを組み、橋本龍太郎、麻生太郎、亀井静香を破りました。この時の総裁選で小泉純一郎は「自民党をぶっ壊す!」と連呼し、街頭演説には数千人から数万人の観衆が押し寄せる「小泉旋風」を巻き起こしました。
森喜朗が地に落とした自民党の支持率とイメージを、完全に刷新することに成功した小泉純一郎は、戦後の内閣として歴代1位の87%という高い内閣支持率で、2001年4月26日、第1次小泉政権をスタートさせました。今ほどインターネットは普及していませんでしたが、小泉純一郎が新政権のスタートとともに発行したメールマガジンは、あっと言う間に200万人を超える購読者を獲得し、その注目度の高さを知らしめました。
こうなって来ると、全国の人たちの期待度も高まります。自民党に批判的だったあたしですら、この時は「小泉さんなら自民党を変えてくれるかもしれない。日本を良くしてくれるかもしれない」と期待しました。そして、政権発足の翌5月には、あたしの期待は確信に変わったのです。
日本では多くのハンセン病の患者が「らい予防法」という悪法によって不必要な隔離措置を強制され、差別されて来ました。この悪法は1996年に廃止されましたが、この廃止措置を受けて1998年、熊本と鹿児島の療養所にいたハンセン病の患者のうち少数が、熊本地裁に国家賠償訴訟を起こしました。長年差別されて来た患者たちの多くは、裁判の原告となることに消極的でした。しかし、原告団の努力によって、最終的には全国のハンセン病の患者、約4,500人のうち半数以上が原告となりました。
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