先月、94歳で亡くなった音楽プロデューサーの長田暁二さん。音楽会の功績もさることながら、その人生には多くの印象的なエピソードがありました。今回のメルマガ『佐高信の筆刀両断』では、著者で辛口評論家として知られる佐高さんが、長田暁二さんのお話を紹介しています。
軍歌とマスコミの責任
「日刊ゲンダイ」デジタルで音楽プロデューサーの長田暁二を追悼し、山口組3代目組長の田岡一雄が亡くなった時に、長田が徳間康快の名代で1億円の小切手を香典に参加した話を紹介したら、音楽界の人に、もっと本筋の功績を取り上げてほしかったと言われた。
倍賞千恵子の「下町の太陽」をヒットさせたことなどに触れたのだが、不満だったらしい。
長田は魅力的な人で評伝を書きたかったが、安倍昭恵の対談集で、エッと驚くような話をしている。実はこの本を長田からもらった時、アッキーのものなんか読めるかとイヤな顔をした覚えがあって、読んでいなかった。
曾野綾子ともやっているその対談集によると、長田は3歳の時に親が離婚して母親と別れたという。岡山の父親の実家の寺に行ったのだが、母親が恋しくて鉄道の線路に沿って行けば会えると思い、山門の33段の石段を下りて線路にたどりついた時に汽車に轢かれた。
そして足の指を切断する怪我を負う。全身打撲で5年間くらい病床にあったが、その時、父親が手巻きの蓄音機を買ってくれて、童謡から歌謡曲、そして民謡まで聴いたことが後年の職業につながった。
駒沢大学を出てキングレコードに入社。
中田喜直を中心にした作曲家の協力を得て芸術祭参加作品として日本初のオリジナルLP『チューちゃんが動物園へいったお話』という音楽物語をつくったが、これを母親が見たのである。彼女は、息子たちは大きくなったら寺を継ぐために本山にやってくるだろうからと、鶴見の総持寺の前でレコード店を開いていた。
長田は「自分が事故にあったのも母が離婚したからだ」と怨みに思っていたが、彼女はキングが催したお祝いの会に来て、「お前が暁二か」と言ったという。長田は複雑な気持ちだったらしい。後妻にかわいがられたこともある。5歳上の兄は母のことを覚えていて、後添えのひとに反発していたとか。
この対談の最後で、長田は軍歌にいま関心を持っていると言っている。
NHKなどで懐かしのメロディなどの特集をやると、昭和15年の『誰か故郷を想わざる』から、戦後の『リンゴの唄』に飛んでしまう。軍歌は消されているのである。長田は語る。
「新聞社―特に『朝日新聞』なんかは当時は軍部の肩を一番持ったんですよ。国民歌を募集して懸賞金を出す。そうすると発行部数が伸びて、その歌を軍に献納すると新聞紙をもらえる。紙の配給がない時ですから、会社も儲かるわけです」
「戦意高揚のすごい歌がいっぱいできているんです。マスコミ、特にNHKが中心となって作っていましたから、自分たちの過去を暴かれたくないという思いで隠しているんでしょう。『真相はこうだ』と書きたいんですよ。生きてる間にね」
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