米軍による「対馬丸事件」というジェノサイド
そして、すでにサイパンが陥落して戦況の悪化が著しかった日本軍は、迫り来る沖縄での決戦に向けて、足手まといになる沖縄の児童の本土への疎開を促し始めました。厳しい食料事情もあり、日本軍は戦争の役に立たない小中学生を沖縄から減らしたかったのです。そのため日本軍は、半ば強制的に沖縄の児童の本土への疎開を進めました。
そして8月21日、多くの疎開児童を乗せて沖縄から長崎へ向けて出港した貨物船「対馬丸」は、翌22日、米軍の潜水艦「ボーフィン」からの魚雷攻撃を受けて沈没したのです。この船には1,788人が乗船しており、そのうち小中学生780人を含む計1,485人が犠牲になりました。しかし日本軍は、疎開が進まなくなることを恐れ、箝口令を敷いてこの事実を隠蔽したのです。
戦争中なのですから、米軍の潜水艦が日本軍の戦艦に魚雷を発射するのは分かります。しかし、いくら敵国の船舶とは言え、民間人の乗った一般船舶を攻撃し、これほど多くの犠牲者を出したのですから、これは後に本土各地で行なわれた大空襲や原爆投下と同じくジェノサイドであり、完全に戦争犯罪です。さらに言えば「対馬丸」の犠牲者の多くは沖縄県民だったのですから「沖縄戦」はすでに始まっていたのです。
また「沖縄戦」を語る上で忘れてはならない「ひめゆり学徒隊」も、日本軍の命令によって強制動員されたのは1944年12月です。日本軍に見捨てられて多くの女子学生が残酷な結末を迎えたのは1945年6月ですが、「沖縄戦」が始まった日とされる1945年3月26日の4カ月も前から、200人を超える女子学生たちの「死への旅路」は始まっていたのです。
こうして時系列で全体像を見てみると、「沖縄戦」の始まった日を米軍が沖縄に上陸した1945年3月26日とするのは「戦争の矮小化」であり、「対馬丸事件」や「ひめゆり学徒隊」に関する日本側の責任をうやむやにすることに他ならないと思います。どこからどう見ても沖縄は、当時の国によって本土防衛のための防波堤にされたことが明白であり、この「国による沖縄差別」は、戦後80年が過ぎた今も1ミリも改善されずに続いているのです。
戦後の日本は、全国の米軍施設の70%以上を沖縄に押し付けただけでなく、在日米兵によるレイプや殺人などの凶悪犯罪も日本の法律で裁くことのできない不平等な「日米地位協定」を改定せず、それどころか米軍にアジアの前線基地を上納するために、ジュゴンの餌場だった美しいサンゴの海を戦没者の遺骨が混じっているかもしれない土砂で埋め立てる始末。
これでは、80年が過ぎた今もなお「沖縄戦」は終わっていないのではないかと錯覚してしまいます。そして、この国は、数えきれないほどの民間人が犠牲になった先の戦争から何も学ばず、また同じ轍を踏もうとしているように見えてしまうのです。
この記事の著者・きっこさんのメルマガ