強い戦闘集団を擁する集落の指導者の心には、たとえ集落が飢えに直面していなくとも、近隣の集落を攻撃して自己の支配下に置こうとする野望が芽生えることもあったろう。戦争の始まりである。強い集落は弱い集落を併合して、どんどん大きくなっていった。古代オリエントに強大な独裁的な帝国が出現したのは3400年前のことだ。
独裁帝国は極端な階級社会で、生まれつき身分が決まっていて、人々はそれを当たり前だと思って生きていた。2023年に『自己家畜化する日本人』と題する本を出版したが、狩猟採集民は創意と工夫を凝らし、自分(たち)の力で獲物を狩る必要があるため、自主性と独立性に富んでいるが、大多数の農耕民は指導者の命令に従って単純作業に従事すればよいわけで、独創的なことを考えて、創意工夫を凝らすことは不必要で、むしろ独創的な個人は集団から排除される危険がある。
狩猟採集民はいざとなれば、自分たちの力だけで生きていくことができるが、農耕生活になじんだ人々は、たとえ支配階級であっても、生産に従事する被支配階級がいなければ生きていくことはできない。誰もが他人に頼ってしか生きていけないという意味で、農耕社会になって「人間の自己家畜化」が進んできたのである。
奴隷という悲惨な階級は措くとして、自己家畜化が進んだ社会は、ある意味で安定的な社会で、知力・体力を目いっぱい発揮しなくとも、分相応に生きていれば、それなりに楽しく生きられた社会であったろう。現代の日本社会には公的な意味での生まれつきの身分差はないが(天皇制が唯一の例外だ)、富豪の家に生まれるのと、貧民の家に生まれるのとでは雲泥の違いがあることは誰でもわかる。大富豪の子供が、親に何億もするマンションを買ってもらったとしても、貧民はあまり嫉妬はしないだろうが、自分と同じアパートに住んでいる貧乏人が、6億円の宝くじに当たったり、年収1千万円の会社に就職したりすると、心穏やかではなく結構嫉妬すると思うーーー(『池田清彦のやせ我慢日記』2025年4月11日号より一部抜粋、続きはご登録の上お楽しみください。初月無料です)
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