プロ野球読売巨人軍、終身名誉監督の長嶋茂雄さんが3日、89歳で亡くなりました。米メジャーリーグ関連の通訳兼コーディネーターとして、また芸能記者として“ミスタープロ野球”の生き様を追いかけてきた芸能記者歴30年超のベテランジャーナリスト・芋澤貞雄さんが、当時の思い出を振り返ります。
アメリカのMLBファンからもリスペクトされていた長嶋茂雄さん
“ミスタープロ野球”こと長嶋茂雄・読売ジャイアンツ終身名誉監督がお亡くなりになりました。享年89歳。
日本中の野球ファンはもちろん、昨日は野球に明るくない人までの全員が、まるで天気を涙雨に替えたような1日でした。
NHKが朝の情報番組を一時中断してその詳細を伝えるほどのスポーツ選手。長嶋さんは国民栄誉賞・文化勲章受章者とはいえ、やはり異例中の異例な存在だったことをあらためて思い知りました。
長嶋さんで、私が真っ先に思い出すのは、今からちょうど45年前、アメリカ・ロサンゼルスのドジャースタジアムで開催された、第51回MLBオールスターゲームの光景です。
まさにドジャース・ブルー色に晴れ渡った晴天のこの日、私は放送ブースに、通訳兼コーディネーターというスタッフのひとりとして待機していたのです。
ケン・グリフィー・シニア(当時はシンシナティ・レッズ所属)という偉大な選手がMVPを獲得した回です。
この時、隣の放送ブースにいた、もちろん私より遥か年上の大先輩スタッフから「Nagashimaは元気でいるのか?今は何をやっているのか?」と声を掛けられたことが、今でもとても印象に残っています。
45年前は当然、SNSなどない時代ですから、よほど密に日本と連絡を取っている人以外、アメリカの野球ファンが日本の野球界事情を知る術はなかったわけです。
彼が何の仕事をするスタッフなのかはわかりませんでしたが、Japanの放送ブースで偶然見つけた日本人の若造に、たまらず声を掛けたのだと思います。
「日本のプロ野球チームでヘッド・コーチをして、元気にしていますよ」
「そうか…Nagashimaはトミー・ラソーダと同じ道を歩むんだろうな…」
彼がポツンと漏らした一言は、今でもその声が思い出されるほど、胸の奥に消化されず残っています。
当時の長嶋さんは、名誉よりも成績が大事な立場の指導者で、残念ながらこの時は短命に終わってしまったのですけれど――。
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芸能記者として長嶋茂雄さんを追跡した思い出
その後、週刊誌の芸能記者になった私が、初めて長嶋さんと向き合うことになったのは、今から9年前のことでした。
球界関係者から“ミスター(長嶋さんのことです)が4年後の東京五輪を目標に、ハードなリハビリをスタートしたらしい…”という、にわかに信じ難い情報を耳にしたことがきっかけでした。
2004年に脳梗塞を患い、右半身に麻痺、言葉も上手く喋られなくなっていた長嶋さん。当然、普段からリハビリは続けていましたが、そのトレーニングを1段階も2段階もアップさせると聞いたのです。
それで急遽、長嶋さんを追いかけることになったというわけです。
私が取材ポイントに選んだのは、長嶋さんのメイン・スポンサーが提携する、都内有数の最先端リハビリ施設を持つ病院でした。
ここに、診療受付開始の午前8時半から午後4時50分まで、ベタで張り付いたのです。
病院のエントランスに大きめのバンが横付けされるたび、カメラマンとともに浮足立ったのを、まるで昨日のことのように思い出します。
もちろん病院にとっては許されない行為ですから、カメラは、診療を待つふりをしたカメラマンのカバンの中にひっそりと仕込まれていました。
張り込み中の食事、トイレはすべて院内でしたから、定期的に巡回をしていたセキュリティスタッフや、受付や清算にいた事務職のスタッフの方は本当に怖い思いをしたことでしょう。病院のオープンと同時に8時間以上も院内に居座っていたオヤジ2人から、この場を借りて謝りたいと思います。
すみませんでした…。(次ページに続く)
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