アメリカの国連軽視が招いた中ロによる安保理の利用
ただ、拒否権を武器に自国の行いに対する非難を葬り去るのは、何もアメリカだけでなく、もう開戦から3年半が経過しているロシアによるウクライナ侵攻に対するいかなる決議案も、ロシアが必ず拒否権を発動しますし、一方的な非難を行う内容については、盟友である中国が拒否権を発動するか、または棄権するかという選択をするため、実質的にここ3年半ほどの間、国連安全保障理事会は、本来託された責任を果たせず、政治・外交的な紛争の場と化し、相互に非難合戦を繰り返すだけの場になってしまっている感が強いのですが、かつて安保理のお仕事も担当させていただいた身としては、議論が空転している間に、ガザやウクライナ、スーダン、ミャンマー(ビルマ)、中央アフリカ、そしてアフガニスタンなどで無辜の人たちが生命を奪われ、生活の安寧を脅かされている現状を前に、言葉では言い表すことができないほど危機感と無力感、そして虚しさを感じています。
トランプ大統領は演説の中でいみじくも「国連は私たちのために存在していないことに気付いた」と発言していますが、彼が意図している内容とは違うでしょうが、まさに現在の国連、特に平和と国際安全保障、そして紛争解決の番人であるべき安全保障理事会が機能不全に陥っている惨状は、“もう私たちのために存在する・働く国連ではない”と言えるかもしれません。
では国連はもう無用で解体されるべきなのでしょうか?
非常に複雑な心境を招く問いですが、YesとNoが混在する答えになるのではないかと考えます。
第2次世界大戦後、国連が平和維持への国際ルール作りで果たしてきた役割は否定できないでしょう。
戦後すぐに勃発した朝鮮戦争時には安保理が国連軍の創設を決議して“休戦”に寄与していますし、旧ユーゴスラビアの崩壊時にもThird Party Neutral(中立な第3者)として紛争の調停に乗り出しました(残念ながら共和国間の紛争の板挟みになり、物理的にも動けなかったというジレンマを露呈しましたが)。
そして今、アメリカが否定する国連安保理は、湾岸戦争時には米国主導の多国籍軍の結成に法的なお墨付きを与えました。
アメリカの対国連姿勢に変化が現れだしたのは、2003年くらいからでしょうか。2003年のイラクへの攻撃については、常任理事国が真二つに割れ、アメリカのブッシュ政権が国連を見限ってCoalition of the Willing(有志国連合)という形式を選択して、イラクへの爆撃およびフセイン政権の終焉に乗り出したのを境に、アメリカの国連軽視が鮮明化し、その後は国連にアメリカのリーダーシップが戻ってくることは無いように見えます。
その結果、ロシアと中国による安保理の利用が始まり、国連安保理の形骸化が叫ばれるようになっています。
とはいえ、人権や女性の権利向上、気候変動問題や持続可能な開発に向けた連帯、WHOのような国際保健衛生行政のような分野では、国連の枠組みは間違いなく加盟国間の議論と協議の場を提供し、最新の科学的知見の共有と、単独では対応できない世界的な課題に対する国際的なムーブメントを可能にしてきたことは評価できると考えます。
しかし、これらのThe UNと言われるような取り組みも、各国の利害がぶつかり、主張が先鋭化し始めるにつれ、WTO体制も、気候変動を話し合うUNFCCC体制も対立構造が目立ち、それはまた世界的な課題でもある海洋プラスチック問題への対応と協力を非常に困難にし始めています。
その背後には、自国第一主義を追求する各国の動きが存在し、それが同時に、国際的に物事を解決していく国連中心のシステムを弱体化させ、形骸化させ始めているのだと考えられます。
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