なりふりかまわぬ政権復帰を目指す自民が使った禁じ手
そしてここで、なりふりかまわず政権復帰を目指していた自民党は、社会党と組んでその党首・村山富市を首相にするという禁じ手を使ったのだった。
まさか「社会主義国化・非武装中立・自衛隊違憲」の党と自民党が組むなんて誰も思ってもいなかったのだが、政権に就くためなら、そして党を延命させるためなら、なんでもやるのが自民党だったのだ。
こうして平成6年(1994)、自民・社会に新党さきがけを加えた「自社さ連立政権」が発足したのである。
首相になった村山は「自衛隊合憲」「日米安保堅持」と党是を180度転換、「非武装中立は政治的役割を終えた」と表明した。
そしてさらに「社会主義国化」も放棄し、党名を「社民党」に変更。あとは凋落の一途となった。
いまや社民党の国会議員は衆院1人、参院2人。選挙の度に政党要件が維持できるかどうかが最大の注目点となる政党に成り果てている。
もっとも、社会党が滅びるだけならまだよかった。どうせ社会主義政党なんか、冷戦終結とともに滅び去る運命にあったのだから。
問題は、自民党が自らの延命だけのためにそんなものを政権に就かせて、その党首を首相にしてしまったことだった。
阪神淡路大震災の際には、初動の遅れが被害を拡大してしまったし、「村山談話」の禍根は今なお根深く残っている。
自社さ連立政権は村山が首相を辞任した後、第1次橋本龍太郎内閣まで続いた。この時、当時新党さきがけに所属していた菅直人が厚生大臣に就任したことから薬害エイズ事件が急転、和解へと向かったわけで、わしにとってはこれだけが自社さ政権の功績である。
社民党・さきがけは第2次橋本内閣から閣外協力となり、後に離脱。自民党は単独政権、自由党との「自自連立」を経て平成11(1999)年の小渕第2次改造内閣から公明党と連立を組んだ。
社会党もさきがけも自由党も、今はない。社民党も風前の灯火だ。結局、政権与党の座に目がくらんで自民党と組んだら最後、党のアイデンティティも何もかもなくして、滅亡するしかないのだ。
高市政権が発足して、安倍晋三の衣鉢を継ぐ「保守」政権だと売り出していけば、ネトウヨ層は全員高市自民党に乗り換えていって、国民民主党と参政党の票が大幅に減る。日本保守党なんか消えちゃうだろう。
~中略~
そうなってしまうと、今度は維新の存在価値が揺らいでくる。そもそも維新は大阪が本拠地で、「大阪都構想」をアイデンティティのように掲げ、これが住民投票で2回否決された今も「副首都構想」と変えて実現を目指しており、これに反対する自民と選挙で激しく争ってきた。
それなのに自維が連立し、さらに自民が強くなったら、もう維新はアイデンティティも求心力も失って消滅していくしかない。
公明党はいいタイミングで自民党から離れたとは言えるが、26年間も自民と連立を組んで、その間に安倍政権の安保法制や特定秘密保護法や共謀罪成立などに協力してきたのだ。今さら独自性を出そうといってもそううまくいくはずもなく、ジリ貧になっていくしかないだろう。
そしていま、維新という新たなカモがネギしょってやってきたというわけだ。
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