問い直すべきは私たち自身
「純日本人」という概念は、科学的にも歴史的にも幻想である。
私たちは皆、混血の末裔であり、多様なルーツを持つ人々が作り上げた文化の中で生きている。天皇陛下でさえ、朝鮮半島との「ゆかり」を感じていると公言された。にもかかわらず、特定のルーツを持つ日本人を排除しようとする。その矛盾に、私たちはもっと敏感であるべきだ。
日本で生まれ、日本で育ち、日本語で考え、日本の文化を愛し、日本のために働いている――それでもなお「お前は日本人ではない」と言われる人々がいる。この理不尽を放置することは、結局のところ私たち自身の社会を貧しくする。
多様性は弱さではない。強さだ。異なる背景を持つ人々が共に生きる社会こそが、より豊かで、より創造的で、より強靱な社会を作る。ただ、日本にいる「日本人」と「外国人」の区別は当然にあってしかるべきだと思う。現代における無条件な移民政策は、国の弱体化をもたらす危険性をはらんでいる。それは海外の事例をみれば明らかだ。だが、日本人同士での「区別」は差別であり、断じて許されるべきものではない。その問題点の整理ができている者は果たしてどれほどいるのだろうか?
日本人であることの意味
果たして、日本人であるとは、どういうことか。
それは血統の問題ではない。この国で生まれ、この国を選び、この国の言葉を話し、この国の未来を共に作ろうとする意志を持つ者――それこそが「日本人」といえるのではないのか。
桜井弁護士は番組で、応援してくれる少数の人々のためにも発信を続けると語った。その言葉に共感する。
果たして、目指すべき社会は、排除の論理で成り立つ閉じた社会なのか、それとも多様性を力に変える開かれた社会なのか。正直なところ難しい問題だ。だからこそ、可能性を排して、双方の意見をぶつける必要がある。
「日本人再論」――それは過去を見つめ直し、未来を選び取る作業だ。今こそ、私たち一人ひとりが、自分自身の中にある偏見と向き合う時ではないだろうか。
(『上杉隆の「ニッポンの問題点」』2025年10月30日号より。ご興味を持たれた方はご登録の上お楽しみ下さい。初月無料です)
※本コラムは個人の見解であり、特定の個人や団体を擁護・非難す
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