AIによる文章生成が一般化しつつある現在、「自分の名前で出す文章を、AIに書かせてよいのか」という問いに直面する方も少なくありません。メルマガ『j-fashion journal』の著者でファッションビジネスコンサルタントの坂口昌章さんは今回の記事で、AIという道具の本質と、それを使いこなせる人間の条件について考察しています。
AIという工房、自律する者だけが使いこなせる道具
1.誰が書いたか、という問い
私は四十年間、書くことを生業としてきた。その私が、AIに文章を書かせることに、しばらくの間、奇妙な罪悪感を覚えていた。
自分の名前で出す文章を、AIに書かせていいのか。それは欺瞞ではないか。読者への裏切りではないか。そういう感覚が、ぬぐいきれなかった。
しかし、あるとき気づいた。この問いは、書く側の問いであって、読者の問いではない、と。
読者の立場に立てば、目の前に良い文章が提示されることに価値がある。それが一人の人間によって書かれたのか、複数の人間の手を経たのか、あるいはAIの助けを借りたのかは、本質的な問題ではない。問題は、その文章が読者に何かをもたらすかどうかだ。
この単純な事実に気づいたとき、罪悪感は消えた。
2.中世の工房という先例
歴史を振り返れば、私が悩んでいたことは、実は新しい問題でも何でもなかった。
中世からルネサンスにかけて、ヨーロッパの画家や彫刻家は工房単位で仕事をしていた。ミケランジェロもルーベンスも、その名のもとに多くの弟子や職人を抱えていた。依頼主が発注し、親方が構想し、弟子たちが実際の作業を担う。完成した作品は親方の名で世に出た。
これは欺瞞だったのか。違う。それが当時の創作の標準的な形態だった。親方の才能とは、構想する力であり、全体を統括する眼力であり、工房という組織を機能させる経営能力だった。手を動かすことと、創ることは、別の次元にある。
現代の私たちは今、同じ地点に立っている。
AIという、きわめて優秀なアシスタントを手に入れた。このアシスタントは疲れを知らず、膨大な知識を持ち、指示すれば瞬時に文章を生成し、構成を提案し、表現を磨く。これはまさに、新しい形の工房だ。
親方は私自身だ。何を作るかを決め、どう作るかを指示し、出来上がったものを評価し、修正を加え、最終的に世に出す判断をする。この一連の行為の責任者は、あくまで人間だ。
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