5.「You」として見るか、「it」として見るか
哲学者マルティン・ブーバーは、相手を「あなた(You)」として見るか、「もの(it)」として見るかが、人生を決定的に分けると語ったそうである。
相手をものとして見る人は、自分自身もものとして見られてしまう。そして、たとえ誰かに本当に大切な存在として見られていたとしても、それに気づくことができない。
これは、僕が長年探求してきたアダムスキー的な世界観とも深く通じている。
僕たちは本来、宇宙や創造主というべき大いなるものと、確かにつながっていた記憶を持っている。ただ、現代の情報と刺激の洪水の中で、その記憶を忘れてしまっているだけなのではないだろうか。
取り戻すために必要なのは、何かを新しく獲得することではなく、雑音を一つひとつ取り除いていくこと。
沈黙、静寂、そして自然。この三つが、記憶を呼び覚ます鍵になる。
AIがどれほど優しい言葉を返してくれても、僕たちはどこかで「これはitだ」と知っている。だからこそ、人間がAIに対して持てる価値があるとすれば、それは「よりよきYouであること」だと思う。
身体性を伴った体験、生々しい実感、揺れ動く感情。これらはitには決して真似できない、人間だけの領域なのだから。
対談の中で、AI時代の本当の「勝ち組」とは何かという話があった。
AIに上手に寄り添い、その手先として効率よく立ち回れる人は、たしかにバトルフィールドでは勝てるだろう。
けれど、それは結局「使いやすい駒」でしかない。本当の勝ちとは、もっと別のところにある。それは「へこたれないやつ」であることだ、というのだ。
この言葉が、僕の中でずっと引っかかっていた。
施術の現場に立っていると、心が折れかけている方に本当に多く出会う。
仕事で潰され、人間関係で消耗し、身体はもうとっくに悲鳴を上げているのに、頭だけが「大丈夫、まだやれる」と無理を続けている。そういう方の背中や肩は、決まって鉄板のように硬くなっている。
へこたれない人というのは、実は「痛みを感じない人」ではない。むしろ逆。ちゃんと痛みを痛みとして受け止め、それでも次の日にはまた立ち上がれる人。この違いは、どこで生まれるのか。
対談では、へこたれない人に育つには「愛に包まれて育つ」ことが必要だと語られていた。
これには深くうなずいてしまった。
人間的な幸せというのは、辛抱や我慢を抜きにしては語れない。しかし、その辛抱や我慢を「ただの苦痛」で終わらせず、自分の糧として回収できるかどうか。ここに大きな分かれ道がある。
有害な体験そのものをなかったことにはできない。
しかし、その体験を「自分を壊したもの」として記憶するか、「自分を鍛えたもの」として記憶し直すか。これは後からでも選び直せることだと、僕は施術を通じて何度も見てきた。
身体の緊張がほどけ、深い呼吸が戻ってくると、同じ過去の出来事でも、語られる言葉の温度がまるで変わってくる方がいらっしゃる。
「あの経験があったから、今の自分がある」と、静かに言えるようになる瞬間だ。
人間関係を選ぶときも同じことが言えると感じる。
「この人との間にもし摩擦が生まれても、それは自分にとって糧になる」・・・
そう思える関係を選べているかどうか。都合のいい相手、傷つかない関係ばかりを選んでいると、一見穏やかに見えて、実は自分を育てる機会をどんどん手放してしまっている。
願望の水準そのものを、少し高いところに据え直すこと。
それが「へこたれない」体質を、後天的に作っていく循環になるのだと思う。
AIは、失敗しても心が折れることはない。
そもそも折れる心を持っていないから。だからこそ、痛みを引き受けながらもまた立ち上がるという、人間だけに許されたこの営みこそが、これからの時代における静かな強さになっていくのだと、僕は感じている。
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